吉田松陰さんをご存知でしょうか?
歴史ファンでなければ名前さえ読めないかも。「まつかげさん?」
歴史を少しかじっていれば、明治時代をつくった若者たちを塾で教えた先生ってくらいでしょうか?
先生って言うくらいなので、俗に言う物凄く厳格で厳しいお人。逆に優しくおしとやかなお人とか。
実際は、「みなさん!狂ってますか?」って聞いてしまうほど、本人も狂っているお方。
もちろん、大酒飲みで「あははは!」といった感じで狂っている分けでも、みんなに「そうなれ!」と言っている分けでもありませんよ。
「常識に惑わされず、現状に満足せず、自分の信じる道を進め!」という意味です。
略して「諸君!狂いたまえ!」なんです。
どんな訳し方!?ってなりますよね。
けれど、インパクトが大きい言葉だけに心にダイレクトに響きますね。ここまでしていいんだって勇気が持てる言葉です。
本当の意味も一緒に知っとかないと、全く違う方向に行ってしまいそうですが。
今回はそんな言葉を残した吉田松陰さんについてです。
それではまいりましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
狂う前の松陰さん
1830年、長州藩(山口県)で杉家の次男として生まれる。
6歳頃、叔父の吉田家に養子に入る。その叔父は兵学師範だったため、兵学も学ぶ。
9歳頃、長州藩の藩校・明倫館で兵学を教える。注意してください!「教わる」ではなく「教える」ですよ。
武士の身分しか入学出来なかった明倫館は日本三大学府に数えられていました。その学校で9歳にしてもうです。ある意味、狂っているのでしょうか。
11歳頃、長州藩のお殿様の前で抗議を見せて大成功。知名度アップ。
もう一人の叔父・玉木文之進さんが作った「松下村塾」で学び始める。松陰さんが松下村塾をつくったイメージがあったんですが、生徒の方だったんですね。
講義中に松陰くんの顔に蚊が止まったので払ったら怒られました。
「集中していなから気になるのだ!」
13歳頃、長州軍を率いて、西洋艦隊撲滅演習を指揮までしています。
その頃、清(中国)vsイギリスのアヘン戦争が起こっており、清が大敗しました。それを知った松陰さんは日本の兵学は時代遅れと痛感、西洋兵学を学ぶことを決意。
20歳頃、九州へと遊学するのです。
九州の後は江戸へ出て、兵学者・佐久間象山、熊本藩の武士・宮部鼎蔵と出会います。
大人顔負けの経歴の持ち主です。というか全てのことで年齢が若すぎます。まさに神堂ですね。
行動が狂い始める20代
22歳頃、宮部鼎蔵さんと東北地方への旅行を計画します。
水戸(茨城県)で学者さんとの面会、会津(福島)藩校の見学、鉱山見学、秋田で起こった大事件の現場見学、津軽で外国船の見物などなど。好奇心旺盛。頭の良い子供のような。
当時は日本国内でも藩をまたげば別の国、旅行には「通行手形」が必要でした。
通行手形を長州藩に申請しましたが、出発日になってももらえません。松陰さんがとった行動とはなんと「脱藩」でした。
幕末の頃になるとかなりゆるーくはなっていますが、死刑の可能性もある罪です。
「常識に惑わされず、自分の信じる道を進め!」です。「諸君!狂いたまえ!」ですね。
23歳頃、黒船がやってきます。ペリーの開国のやつですね。
最先端の文明と一緒にやってきた黒船たちに好奇心旺盛な松陰さんが心踊らされないわけはないですよね。外国留学を決めちゃいます。
長崎に来ていたロシア軍艦に乗ろうとしますが、なんやかや実現できなかったのです。
翌年、外国留学の実現を諦められない松陰さんは弟子・金子重之助と共に、再度やってきたペリー艦隊に乗り込もうとします。
小舟を盗みそして黒船に横付けにし乗り込もうとした。もちろん追い返さてしまうんですが。
2人は投獄されてしまいました。その時、師・佐久間象山も流れで一緒に投獄させられしまうのです。行動力のある方は周りの巻き込み方も優秀なんです。ますます狂いに拍車がかかってきました。
ペリーさんは2人の行動力に大変感服してみたいです。
「こんな人物たちがいるのなら日本の未来は明るい!」
25歳頃、牢から出されますが、実家で幽閉処分です。
27歳頃、家から出られないので家の敷地内で松下村塾を引き継ぎ開塾、後の明治政府で活躍していく若者たちを教育して行きます。教えるというよりも共に意見を交わし合い、一緒に学んでいくという「生きた学問」だったそう。良い言葉ですね。
28歳頃、江戸幕府はアメリカと不平等な条約を結んでしまいます。
これに松陰さんは大変怒ります。そうなると松陰さんは止まりません。なんせ狂っておりますから。
江戸幕府の偉い人、老中・間部詮勝の暗殺を考え出します。しかもそれに使う武器などを長州藩に出してもらおうとするのです。
これには塾生たちも止めに入ります。
「先生!ちょっと落ち着いて!」
松陰さん逆切れ。「狂っていないお前らとは絶交だ!」
長州藩は松陰さんを危険人物とみなし投獄させました。
翌年、軽い事情聴取のために役人と話したのですが、聞かれてもいない間部詮勝暗殺計画をしゃべり出します。
そしてそれが罪に問われ亡くなってしまったのです。
まとめ
常に自分の考えに真っ直ぐなお方だったんです。
煙草もお酒も女遊びも一切やらず、投獄中でも本を600冊読んで、囚人同士で講義を開く程です。
「人間とは常に何かを学ぶものだ」と言っています。
そんな松陰さんは前科5犯です。真面目なのかなんなのか分かりません。
もし外国への留学を成功させていたら、もっともっと長生きをし、新しく狂ったことをやってのけたに違いありません。
常識に惑わされず、自分の信じる道のみを進んだお方なのです。
「諸君!狂いたまえ!」
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