2016年大河ドラマ「真田丸」が大好評でした。
真田幸村さんはずっと人気でしたが、さらにさらに大人気になりましたよね。
今回は、そんな真田家のお城「上田城」について紹介します。
徳川家康さんの命で幸村さんの父・真田昌幸さんが築城するのですが、のちに徳川軍は2度もこのお城に敗北することになるのです。
面白いですよね。
それではまいりましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
上田城はいつ、そしてなぜ建てられた?
真田は武田信玄の家臣!
真田家は元々、戦国武将・武田信玄さんの家臣でした。
武田氏は織田信長・徳川家康連合軍に対し圧倒的優勢でしたが、1573年、突如の信玄さん病死、家督は信玄さん4男・武田勝頼さんが継ぐことになります。
しかし、信玄さんが亡くなると織田・徳川連合軍は盛り返し、1575年、信長さんの鉄砲隊vs武田騎馬隊で有名な「長篠の戦い」が起こります。
この戦いで、真田家は幸村さんの父・昌幸さんの兄2人が討死してしまったため、3男であった昌幸さんが真田家の家督を継いだのです。
織田信長の家臣へ!
1582年、織田信長さんが行った「甲州征伐」により武田氏は滅亡。
武田領地であり真田家が治めていた土地(信濃国と上野国の国境)は織田のものとなります。
真田家当主・昌幸さんは、織田家臣となることを決断しました。
しかしその3か月後、織田家臣・明智光秀さんの謀反により信長さんは本能寺で自害してしまったのです。
有名な「本能寺の変」ですね。
元々、真田家が治めていた土地は、武田、上杉、北条の国境でありとても不安定な地域でした。
信長さんが亡くなると、信長さん家臣・滝川一益さんが治めていたこの地に、北条氏が攻め入ってきます。
一益さん敗走。織田領地(元武田領地)は空白状態となり、北から上杉、南から徳川、東から北条が侵攻していました。
徳川家康の命で上田城の築城開始!
この頃の真田家は北条方に属していましたが離反し、徳川傘下となります。
1583年、北から攻めてくる上杉に対し、信濃国上田に徳川家康さんの命で「上田城」築城を開始します。資材、人員、お金は家康さんが負担します。
徳川と北条の間で和睦が成立しますが、真田家が治めていた上野国の沼田城の引き渡しが条件となっていました。
これには真田家は猛反発を見せ、敵対関係にあった上杉と通じることになります。
家康さんは真田家の造反を知ると、7000の兵を上田城へと向かわせたのです。
徳川との2度の戦い「上田合戦」!
第一次上田合戦!
1585年、家康さんは7000の軍勢を上田城に向かわせ、対する真田軍は僅か2000弱でした。
真田昌幸さんは上田城に、長男の信幸さんは上田城の隣にあった戸石城に籠城します。
数での圧倒的不利な状況を、昌幸さんの知略でそれを覆すのです。
地の利を生かした昌幸さんは、上田城に攻め入ってきた徳川軍を押し戻し、さらには戸石城の信幸さんも横から攻め、徳川軍の後方にあった神川の増水を利用し一気に大勝利を手にしたのです。
徳川軍1300の被害に対し、真田軍の被害は40人ほどでした。
真田の名が天下に轟いた戦いになったのです。
家康さんの真田に対する評価も上がり、家康さん家臣の娘と信幸さんとの婚姻の理由ともなりました。
これは、関ケ原の戦いで真田親子が別れて戦うこととなるきっかけにもなりますね。
第二次上田合戦!
真田家、さらには徳川、上杉などが豊臣秀吉さんに臣従し、天下統一を果たします。
しかし、秀吉さんは1598年に病気で亡くなると、家康さんが台頭。
国内は東軍、西軍に別れ、1600年に関ヶ原の戦いが開戦しました。
真田家は、昌幸さんと幸村さんは西軍に、信幸さんは東軍である家康方に付くこととなります。
どちらが勝っても真田家が生き残る為といったことですね。
家康さんの3男、のちの徳川幕府2代将軍・徳川秀忠さん率いる3万8000の軍勢が関ケ原へと向かう途中、上田城の昌幸さんと幸村さんそして3000の兵がそこに立ち塞がります。
戸石城を守っていた幸村軍に、兄・信幸軍が攻め込みますが、これに対し幸村さんはあっさりと城を明け渡します。
これには、徳川軍はまだ信幸さんを信じきっていない者も多く、心中を察知した幸村さんの作戦、さらには一族同志の争いを避けるためでもあったそうです。
戸石城を落とした秀忠さんは一気に上田城攻略に取り掛かりますが、今回も昌幸さんの知略にはまり、まったく攻めきれない状態となるのです。
そうこうしていると、家康さんから「9月9日までに関ヶ原に着陣せよ!」という書状が届きます。
秀忠さんは、上田城攻略を諦め関ヶ原へと向かったのですが、9月15日の開戦に間に合わないという大失態を犯すのです。
現在ある上田城は真田家が建てたものではない?
長男・真田信之が治める!
関ヶ原の戦いで西軍に味方した昌幸さんと幸村さんは敗れてしまったため、九度山(現・和歌山)に流罪となってしまいます。
そして、上田城は全て徳川軍に壊されてしまいました。
真田の土地は東軍に味方した長男・信之さんに与えられます。「信幸」さんは父と同じ字「幸」を改名。
1621年に、信之さんは上田城の再整備を幕府に申請しますが却下されてしまいます。
翌年、信濃国松代へと転封となりました。隣の国ではあるんですが。
仙石忠政が上田城再建!
信之さんに代わって、上田に入封したのは仙石忠政さんというお方。
この忠政さんは、第二次上田合戦のときに徳川軍として参加しておりました。なんというめぐり合わせ。
1626年、壊されたままの上田城の再建を申請し、新たに築城を開始します。
現在に残る上田城の基礎はこの頃に建てられたものとなりますね。
しかし、築城開始から2年後、忠政さんは上田城完成をまたずして病いで亡くなってしまい、工事も途中で中断されてしまったのです。
1706年、仙石氏に代わり、松平氏が上田の地にやってきますが、上田城はこれ以上の増築は行われずに幕末を迎えることとなります。
今でも残る上田城の特徴!
1棟の櫓門と3棟の櫓
櫓とは、お城から敵の様子を伺ったり、敵への射撃をするための一種の見張り台ですね。
関ヶ原の戦いで上田城は全て壊されましたが、仙石氏がこの地に入封すると、2棟の櫓門と7棟の櫓が建てられました。
しかし、仙石忠政さんが亡くなり、上田城はこれ以上の増築はされませんでした。
明治時代に入ると、西側にポツンとある1棟の櫓を残し、2棟は売却され他へ移築、他4棟の櫓と2棟の櫓門は壊されました。
昭和に入り、売却されていた2棟の櫓は現在の南・北櫓となり、平成になって、1棟の櫓門が復元され、現在の上田城となったのです。
西側にポツンとある西櫓が、仙石氏時代のままの姿ということで特に貴重な建物なのですね。
2009年公開映画「サマーウォーズ」で、この上田城の櫓門が登場するため、真田人気以外にも多くのファンが訪れる場所でもあります。
真田石
櫓門の右手の石垣に大きな大石が埋め込まれております。
真田家長男・信之さんが松代への移封の際に、父の形見として持っていこうとしますが、微動だにしなかったといいます。
ということは、この石垣は真田時代のものという事ですね。真田家の人たちは絶対触っていますよね。
真田井戸
西櫓の近くに井戸が残されているのですが、この井戸は昔、城の北にある山の砦や上田城外にある館に通じていたのではないかと言われております。
まとめ
今回は、真田家のお城でもある「上田城」について紹介しました。
残されているのは仙石氏時代のものではあるのですが、随所に真田時代の名残もあり訪れると大変興味深い場所ですね。
お勧めとしては、ガイドさんの説明を聞きながらの方が個人で見るよりも一つ一つに関心が持てます。
例えば、櫓門の両端に南・北櫓があるのですが、北櫓の方が数m前に出ているのです。
これは、城門に迫ってきた敵を北櫓から撃ち易いようにだそうです。
話を聞かなければ、前に出ていることすらも気付かなかったですね。
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