徳川慶喜さんとは江戸幕府15代将軍にして、鎌倉幕府から始まった700年の武家政治を終わらせた最後の将軍です。
こうやって書くと、なんともイメージがあまり良くないですよね。
この時の日本は、ペリーさん率いる黒船が突然やって来て、「開国せー!」状態でもう荒れに荒れまくっていました。
日本中の武士たちが、「外国に言いなりの幕府なんて倒せー!」状態だったんです。
慶喜さんはこんな状況化で将軍に抜擢。
いったいどんな気持ちで将軍の座についたのでしょうか。
※歴史上の事なので諸説あります。
この記事のあらすじ
大切に育てられた慶喜くん。
1837年、江戸の水戸藩邸で生まれました。ペリーさん率いる黒船が来航してくる15年前です。
父は水戸藩9代藩主・徳川斉昭さん。尊敬していた水戸藩2代藩主・徳川光圀さんの教育方針を受け継いでます。
ちなみにこの光圀さんはあの「水戸黄門様」のモデルのお方ですよ。
斉昭さんがもし現代に生きておられたら、テレビを見て大喜びですね。
水戸黄門様の教育方針は、「子供たちは江戸の華やかな雰囲気の中では育てず、水戸で育てなさい」とのこと。
ということで、慶喜くんは生まれて直ぐに水戸へ行く事になります。
斉昭さんはとても教育熱心なお方、礼儀作法にも厳しかったのです。
と言っておきながらこの人、女性関係がとてもだらしない。
自分の子供が30人以上、大奥ではセクハラ紛いな事も。
しかも、自分の長男のお嫁さんにまで手を出していたなんていう噂まで立っちゃっているのです。やりたい放題ですねこのお方は。
その反面教師のお陰もあったのか、慶喜くんはとてもとても賢く育っていきました。
斉昭さんもとても可愛がり、慶喜くんは7男でしたが、他の家に養子には出さず、長男の控えとして手許に置いておこうと考えていたみたいです。
実は将軍職を断り続けていた⁉︎
10歳頃、12代将軍・徳川家慶さんから「徳川家の分家・一橋家へ養子に入っておくれ」とお願いされます。
家慶さんは、慶喜くんの事を大変気に入っており、次期将軍にも考えていたみたいです。
幼い頃から将軍職の影が見え隠れしていたんですね。
16歳頃、黒船来航のドタバタの最中に家慶さんが病死してしまいます。
そして、家慶さんの子・家定さんが跡を継ぎます。
しかし、家定さんはとてもとても病弱でして、子供を儲ける元気がなかったのです。
そこで、将軍後継問題が勃発!
徳川の分家間で跡継争いが起こってしまうのです。
慶喜さんの敵は有名な井伊直弼さんです。
しかも、慶喜さんは大奥の女性たちに大変嫌われていたんですね。これは父・斉昭さんのせいなんですが…。
どの時代も女性に嫌われると勝つのは難しいですよね。
その結果、慶喜さんは負け、14代将軍は徳川家茂さんとなったのです。
慶喜さんは、父とともに井伊直弼さんに「どーなっとるんだ⁉︎」と意見しにいくんですが、逆に謹慎処分をくらってしまいます。なにしとるんだ?
実は慶喜さんは「将軍は骨が折れるので、無理にやって失敗するならならない方がいい」と言うのが本音だったんですね。やる気のないお方だったのか、はたまたクールなお人?
23歳頃、井伊直弼さんが「桜田門外の変」で亡くなると謹慎が解け、将軍・家茂さんの元で朝廷との交渉、江戸幕府でのお偉いさんたちの反感の押さえ込み、そして地元・水戸藩での反乱の沈静に駆け巡っております。
全く持ってやる気のないお方ではございませんでした。
将軍職に就いてどっかり座っているよりも、走り回っていたいお方だったのかもしれませんね。
しかも、まだ将軍ではなかったのですが、歴代徳川将軍の中で唯一、馬にも乗らずに軍を率いて長州軍(山口県)と戦っております。結構な出たがりのお方でしたね。
29歳頃、優勢であった幕府軍に悪い天気が訪れちゃいます。
仲の悪かった長州藩と薩摩藩(鹿児島県)が同盟を組んでしまうのです。
有名な「薩長同盟」ですね。
仲を取り持ったのがこちらも有名、坂本龍馬さん。
しかも同じタイミングで悪い事は続きます。
14代将軍・家茂さんが亡くなってしまったのです。
もうこうなってしまっては白羽の矢は、行動力の塊、慶喜さんに向けられました。
こんな大変な時期に将軍になっても良いことなんてありませんよね。
「いやいや、将軍なんて無理っすよー!」と断り続けるのです。
他にも将軍候補はいたみたいですし、慶喜さんは4ヶ月もの間、拒み続けるのでした。
大政奉還の本来の意味とは⁉︎
実は、慶喜さんが将軍になることに反対も多く、実家である水戸藩も反対していました。
このような状況化で将軍職になることを承諾すれば、反対意見も多く自分の意見が通り辛くなるのではと、4ヶ月もの間渋っていたという政治的策略説もあります。政治家を見ましたね。賢い!
そしてついに、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜が誕生したのです。
みんなに担ぎ上げられ、やっと順番が来たか的な感じで将軍になったと思っていましたね。
幕末の動乱の中の将軍ですから、やはりしがらみはありました。
将軍職に就いて10ヶ月後、薩摩と長州が武力で幕府を倒してしまおうと盛り上がります。
「薩長同盟」で長州の危機を救った坂本龍馬さんでしたが、今度は幕府のために立ち上がります。
鎌倉幕府から700年間続いた武家政治に終止符を打ち、政権を朝廷に返す「大政奉還」を慶喜さんに提案するのです。
そうすれば薩長が幕府を倒すという名目が無くなってしまうからです。
龍馬さんは本当に平和を願い、戦争をしたくなかったのですね。
龍馬さんはこの直ぐ後に暗殺されてしまうのですが、この龍馬さんの行動が薩長の武力行使とは意見が合わず、「幕府を戦争で倒したかったのになにしてくれとんねんでごわす!」という理由で、龍馬暗殺の1つともなっています。
もし薩長が犯人なのであれば、仲を持ってくれた人を殺してしまうとは、「昨日の友は今日は敵!」という恐ろしい時代でございます。
慶喜さんの思惑としては、こんな動乱の時期に急に政権を返されても朝廷はなにも出来ず、結局は幕府に泣きついてくるだろうと思っていたのです。
そして思惑通り、慶喜政権はしばらくは現状維持となります。まさに思惑通りですね。
しかーし、それも長くは続きませんでした。薩長たちはさらに考えます。
なんと朝廷を掌握し、新政府を作ってしまったのです。これがテストによく出る「王政復古」ですね。
慶喜さんも政権から排除されてしまい、これで江戸幕府は事実上日本から消えてしまいました。
その後、薩長の挑発に乗ってしまった慶喜さん。
ここに「新政府軍vs旧幕府軍」の構図が完成してしまいます。
龍馬さんの頑張り虚しく、戦争へと向かってしまうのです。
まとめ
幕末の動乱の中、大変な時期に将軍になってしまった慶喜さん。
以外にも結構な行動力を持っていたお方だった慶喜さん。
1年間という短い将軍職でしたが、1度も江戸城に入って政治を行っていないんですね。それだけ日本は混乱し慌ただしかったということですね。
平和な時代の将軍・徳川慶喜さんを見てみたかったですね。
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