徳川光圀さんとは日本人なら誰もが知ってる「水戸黄門様」です。
「印籠が目に入る」やつとか、悪を退治するために日本全国を旅して回るお方ですよね。
テレビのイメージが強過ぎるこのお方なんですが、実際のところどういう人物だったのでしょう。
想像とは違う人物像が見えてきますよ!
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
徳川光圀さんの幼少時代は不良だった?
1628年、徳川御三家の1つ水戸徳川家初代藩主の3男として生まれました。
黄門様でおじいちゃんのイメージが強いですが子供時代もちゃんとあります。
ちなみに徳川家康さんが光圀さんのおじいちゃんにあたります。
光圀さんの母は正式な側室ではなかったため、「生んではいけない!」という命令が下っていましたが、密かに家臣の家で生まれました。
光圀さんの兄もまた、同じ境遇で生まれています。
隠されながら育てられていたので、父と対面したのは15歳の時でした。
そして、その4年も前の時点でもう既に、水戸藩の後継ぎは光圀さんに決まってしまっていたのです。
その時の将軍であった徳川家光の「光」の字を貰ったり、後継ぎとなるべき教育を受けていたのですが、実の兄を差し置いて自分が後を継ぐことに複雑な思いがあったのでしょう、光圀さんは幼少の頃はグレまくっていたのです。
派手な格好をしては、町で刀を振り回し、苛立つことがあればすぐに人を切り、辻斬りさえもしていました。吉原遊郭通いもしょっちゅうです。
水戸黄門様にそんな過去が?というのも驚きですが、江戸時代にもそんな不良行動があったことにも驚きですね。
しかし、18歳のときに読んだ、中国の歴史家・司馬遷の「史記」に感銘を受け、勉学に打ち込むようになりました。
その時の光圀さんの評価は、「朝夕文武の道に励む青年」とされています。人は変わるのです。
ちなみに「史記」には、人には思いやり、愛に溺れるな、辛いことの先には幸せがあるといったことが書かれているそうです。
光圀さんの兄への償い?
24歳頃、長男が誕生しました。しかし、一度も会わずに光圀さんの兄のいる高松(香川県)に預けられます。
そして、初めて対面したのが13歳のときですが、あまり親しみの様子を見せなかったと言われています。
さらには、自分の子を兄の養子にし、兄の長男と次男を自分の養子にしたのです。いわゆる子供トレードのような状態ですね。
光圀さんは、兄を差し置いて後を継いだことにずっと負い目を感じていたのでしょうね。
そしてそのまま兄の子が水戸藩3代藩主となるのです。
とてもいい兄弟愛を感じます。江戸時代の後継ぎ争いはドロドロなイメージがしますから。
歴史書「大日本史」を作り始めます。
29歳頃、歴史書「大日本史」の作業に取り掛かります。
大日本史とは、神武初代天皇から後小松100代天皇の世をまとめた歴史書。
完成には249年もの期間がかかった水戸藩の一大事業でした。
18歳の時に読んだ司馬遷の「史記」の影響もあり、日本の歴史書を作りたいと考え始めたのです。
さらに、武家に生まれたのに平和な江戸の世では武功で名を上げられないので、この歴史書を完成させれば後世に名を残せるとも思っていたらしいですね。
しかしそのおかげで、もともと水戸藩の財政は苦しかったのに、この書物作りに藩の収入の3分の1近くもかけてしまい、さらに財政を圧迫していくのです。
全国の藩の学校で教えられるようになる「水戸学」という学問を作った光圀さん。
幕末に大活躍をする吉田松陰や西郷隆盛も学び、明治維新の原動力にもなったとされています。
その裏で、財政を圧迫し民に負担をかける行為は、水戸学の「愛民」の思想から外れていたのではという考えもあります。「名君」であったと評価するのも難しいとか…。
自分の理想が優先してしまうようなお方だったのでしょう。
光圀さんは好奇心旺盛な性格?
34歳頃、初代藩主の父・徳川頼房が亡くなり、水戸藩2代目藩主となります。
当時は、上司が亡くなると後を追って部下も死ぬという「殉死」が美徳とされていましたが、光圀さんはそれを初めて廃止にしたのです。
「殉死は、頼房公には忠義だが、私には不忠義ではないか?」と家臣の家を廻ったとされています。
これは頼房さんが光圀さんに残した遺言であったともされています。ということは凄いのは父の方?
蝦夷地(北海道)探索を3度も行っています。旅気質が出てきたのでしょうか?
その時、黒人を2人蝦夷地に同行させ、そのまま家臣としちゃいました。
織田信長も黒人を家臣としていますから、似たような豪快な性格だったのでしょうか?
さらには、ワインやオランダ製の靴下、インコなど外国の物を大量に取り寄せています。ますます信長さんにそっくりなお方です。
日本で初めて食べた食べ物がたくさんある方で、ラーメン、チーズ、餃子、黒豆納豆などなど。
ラーメンにいたっては、作るのを自分の特技としていて、家臣に振舞っちゃたりしています。
有名な「犬を大事にせー!」の法令・生類憐みの令に反対してか、将軍・徳川綱吉に20匹以上の犬の毛皮を献上しています。
そして、肉食が禁じられているのにも関わらず、牛肉、豚肉、羊肉をお構いなしに食べちゃってます。
このエピソードだけでも、好奇心旺盛な性格と大胆さが分かりますね。
イメージの水戸黄門様ではなかった?
水戸黄門様と言えば、全国を旅して悪を退治するというイメージですが、実際は関東地方と金沢、熱海などにしか足を運んでおらず、あとは水戸藩内をぶらぶらしただけなんです。
全国を廻ったのは、大日本史の資料集めのための家臣たちで、そのイメージが強かったのではとされています。
「こちらにおわす方は天下の副将軍…」
なんてセリフを毎度のこと聞き覚えがあると思いますが、実は「副将軍」なんていう役職は無かったのです。
水戸徳川家の藩主は水戸藩にはいないでずーっと江戸に常駐していました。
国元と江戸を1年置きに行き来する「参勤交代」も免除され、ずーっといたんです。
水戸藩主の中でも光圀さんは国元に帰っている方で、数にすれば11回ほど。
生まれてからの5年と隠居して亡くなるまでの10年は水戸で過ごしましたが、それ以外はずっと江戸にいたのです。
そのためか、いつも将軍の傍にいるために皆から「副将軍」って呼ばれていました。いわゆる仇名だったんですね。良い仇名ではありますね。
「水戸黄門」という呼び名は、「水戸の中納言」という官職を中国名で呼び変えた洒落から来てるのです。
そうなると、水戸の中納言の官職に就いていたお方は7人いたので、みな「水戸黄門様」なんです。
光圀さんの父も、光圀さんの養子である3代目も水戸黄門様なんです。
まとめ
水戸黄門様とはちょっとイメージと違いますが、「好奇心旺盛」が「諸国漫遊」「悪者退治」へと飛躍してしまったようですね。
しかし、本当に黄門様がお供を引き連れて全国を旅しているのを想像すると何故だかワクワクしてしまいますね。
助さん、格さんのモデルの人はちゃんと実在しているんですよ。
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