【徳川家康】ホトトギスが鳴くまでの長い道のりを紹介!

戦国時代
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「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」織田信長(おだのぶながさん。

 

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」豊臣秀吉(とよとみひでよしさん。

 

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」徳川家康(とくがわいえやすさん。

 

本当にその方の人生を簡潔に、しかも的確に表現した歌ですよね。

 

今回は、徳川家康さんについて、さらにホトトギスが鳴かなかった時期に絞って紹介したいと思います。

ホトトギスが鳴いた瞬間、「関ヶ原の戦い」が起こるまでの家康さんはどのような人生を歩んでいたのでしょう。

 

※歴史上の事なので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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子供の頃はずっと人質生活なんです。

1542年、三河国(みかわのくに(愛知県)で生まれました。名前は竹千代くんです。

まだ徳川ではなく松平を名乗っていたので、「松平竹千代」くんです。

名前が少しずつ変わります。最終的には「徳川家康」ですからね。原型なしです。

 

3歳頃、竹千代くんの父は今川氏の傘下でしたが、母の実家が今川氏と敵対する織田氏と同盟してしまったために、母とは生き別れとなってしまいます。

 

6歳頃、今川氏との同盟を固めるため、幼い竹千代くんは駿府すんぷ(静岡県)に人質として出されるのです。

 

しかしここで事件です!

駿府へ向かう途中、味方の裏切りに合い、なんと敵対していた織田氏の尾張国(おわりのくに(愛知県の北)に連れていかれてしまったのです。

織田信長さんの父・織田信秀(おだのぶひでさんは、竹千代くんの父に降伏を促します。

しかしお父さんは、「もし子が殺されるようなことがあれば、皆がするように仕返しをするだろう」と言い、従いませんでした。

織田信秀さんは感服し、竹千代くんを生かしておきました。

この頃、7歳年上の織田信長くんと出会っていただろうと言われております。

もしここで竹千代くんが殺されていたならば、もちろんのこと264年続いた江戸幕府は誕生していません。日本の歴史はとてもとても変わっていたでしょうね。

 

8歳頃、竹千代くんの父は今川氏との連合軍で織田信秀を倒し竹千代くんを救い出しました。

しかし竹千代くんは元々の約束の駿府への人質のためそのまま向かいます。

しかしその10日後竹千代くんの父は家臣に殺されてしまうのです。織田信秀のスパイ説もあります。

どちらにせよ、竹千代くんはまた命が助かった形になるのです。

もしここでも竹千代くんが亡くなっていたら、江戸幕府は誕生していませんでしたからね。

 

 

織田信長とともに戦国の動乱へ!

14歳、竹千代から松平元信(まつだいらもとのぶと名前を変更。今川義元(いまがわよしもとさんから1字もらってます。

 

16歳、さらに祖父の松平清康(きよやすさんから1字もらって、「松平元康(もとやすにさらに変更しました。だんだんあの名前に近づいてきましたね。

同じ年に結婚しまして、2年後に長男が誕生しました。

 

20歳頃、織田信長さんと今川義元さんが戦った桶狭間(おけはざまの戦い」に今川方で参戦しましたが、負けてしまい切腹しようとするのです。

しかし、切腹しようとしていた寺の住職に「平和な世の中をつくるのです」と言われ踏みとどまりました。

ここで亡くなっていたら江戸幕府は来なかったですから。

この住職の言葉から平和な江戸幕府の姿を夢見ていたかもしれませんね。

 

この戦い以降、今川氏と独立しようと考え、織田信長さんとの同盟を考えます。これが戦国時代の面白いところですよね。「昨日の敵は今日の友」ってやつです。

今川義元さんからもらっていた名前も捨て、「松平家康」と改めます。もう50%あの名前です。

家康さんの長男と信長さんの娘の婚約も決まります。信長さんとの同盟も盤石のものとなっていったのです。

 

25歳頃、領土をどんどん広げていき、姓も「徳川」に変えました。

ついに「徳川家康」の誕生でございます。

信長さんと共に、武田信玄(たけだしんげんさんや浅井三姉妹の父・浅井長政(あざいながまささんなど、武将たちをばったばったと倒して行きます。

信玄さんには1度、ボロクソに負けてしまった事はありましたが…。

あまりの恐ろしさに馬の上で家康さんう◯ちを漏らしたとか漏らさないとか。

情けない自分の戒めのために、その時の自画像を残しちゃってるんです。凄いのか凄くないのか全くわかりませんが。

 

そして「天下人・織田信長誕生間近か⁉︎」と思われた頃、ついにあの事件が起こってしまうのです。

家康さん40歳頃の出来事です。

 

 

豊臣秀吉登場で、鳴きそで鳴かないホトトギス!

京都の本能寺で織田信長さん死去。

家臣・明智光秀(あけちみつひでさんの裏切りでした。

 

家康さんは信長さんに招かれ、大阪で遊んでおりましたら、その悲報を聞き大慌てです。

自分の周りには34人の家臣しかいません、この時、自分も攻められたらひとたまりもないからです。

信長さんの後を追うことも考えます。さすがにそれは家臣に止められています。

家康さんって結構なネガティヴ気質だったんですね。「鳴くまで待とう」もなんかしっくりきますよね。

お供の中には忍者・服部半蔵(はっとりはんぞうさんがおり、山道を超えて逃げる神君伊賀越(しんくんいがごえ」を成し遂げ、家康さんは無事自分の国へと帰ることが出来ました。

実はこの半蔵さんは忍者ではなくまぎれもない武将なんです。

 

 

 

「本能寺の変」には黒幕説がいくつもあり、その中には家康さんの名前もあります。

本能寺の変から3年ほど前、家康さんの妻と長男が信長さんに殺される事件が勃発していました。これは結構な動機になりますよね。

 

 

 

謀反を起こした明智光秀さんは、その後直ぐに豊臣秀吉さんに倒されてしまうのです。

光秀さんの「三日天下」ってやつです。

家康さんは「伊賀越え」をしている間に、秀吉さんに1歩遅れてしまうんですね。

そのまま天下は秀吉さんのものに。同じ信長さんの家臣だった秀吉さんに先を越されてかなり悔しかったと思います。

家康さんはそのまま秀吉さんの家臣となり、ついに天下統一を果たした秀吉さん。

しかし、豊臣の天下は長くは続きませんでした。

信長さんが本能寺の変で亡くなってから16年後に秀吉さんが亡くなります。

 

ついについに待ちに待った徳川家康のホトトギスが鳴きわめくことになるのです!!

 

 

 

まとめ

もし織田信長さんが生き続けていたら、家康さんは天下を狙わなかったでしょう。

織田信長とはそれほどのカリスマ性を持っていたお方だったのです。

 

天下が秀吉さんに傾ききっても家康さんは諦めません。

健康に気を使い長生きを心掛けます。

 

そしてついにそのチャンスを掴むのです!

秀吉さんが亡くなっても、天下はまだまだ豊臣家に傾いていました。

その狭い入り口をどうこじ開けていったのでしょうか⁉︎

 

やはり人生は少ないチャンスを逃さないことですね。

 

 

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