「寺田屋事件」と聞くと何を思い出しますか?
幕末のヒーロー・坂本龍馬さんが伏見奉行所の役人に襲撃された事件ですよね。
龍馬さんの後の妻となるお龍さんがお風呂に入っている時に危機を事前に察知。
裸同然で龍馬さんに知らせたというのも有名なお話です。
実はその4年も前に、同じ寺田屋で同じような事件が起きていたんですね。
この事件も「寺田屋事件」と呼ばれております。
寺田屋のご主人、「またか!!」って感じでしたでしょうね。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
有名な方の「寺田屋事件」!!
仲の悪い2大藩の同盟「薩長同盟」!
1853年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航しました。
この時から、日本は幕末へと突入していきます。
そして1866年、坂本龍馬さんが仲の悪かった薩摩藩と長州藩に同盟を組ませることに成功。
これにより、朝廷の敵とされていた長州藩が盛り返し、幕府や会津藩の勢いが弱まっていくのです。
薩長同盟の翌日に起こった「寺田屋事件」!
1866年1月22日(21日という説も)、薩摩藩・小松帯刀さんの京都邸で、薩摩藩・西郷隆盛さんと長州藩・桂小五郎さんが土佐藩・坂本龍馬さん仲介の下、「薩長同盟」を締結しました。
その翌日の23日の深夜2時頃、京都伏見の寺田屋で坂本龍馬さんは長州藩より龍馬さんの護衛役を任されていた三吉慎蔵さんと2人で薩長同盟成功の祝杯をあげていました。
幕府を倒してしまうほどの力があった2大藩を結ばせてしまった龍馬さんは、もちろん幕府から狙われる存在になってしまいますよね。
それを見越して長州藩は龍馬さんを守るため、護衛役の三吉さんを傍に付けていたんですね。
しかし、命を狙われるその時が直ぐに来てしまいました。
お風呂に入っていた龍馬さんの恋人・お龍さんは、不審な動きに気づき格子の外を覗いてみると、寺田屋を30人ほどの役人が取り囲んでいました。
お龍さんは裸同然で2階の龍馬さんのもとへ駆け上がると危機を知らせます。
役人たちは、「奉行よりの命令である!」と寺田屋へ踏み込むと、
龍馬さんは、「薩摩藩士である!」と嘘を付いたと言います。薩摩藩士は奉行の権限が及ばなかったからです。
しかし、嘘は簡単に見破られ、龍馬さんは長州藩・高杉晋作さんに貰った銃で、三吉さんは槍で必死に抵抗したのです。
多勢に無勢で、龍馬さんは手を負傷。この傷が原因で、龍馬さんの写真は手を隠しているのではと言われております。
龍馬さんたちは、お龍さんが開けた裏木戸から逃げた、というのと、他には漫画などで屋根の上を逃げている画が有名ですね。
そして、手を負傷した龍馬さんを材木屋に残し、三吉さんは薩摩藩邸に助けを呼びに走り、その後、龍馬さんを無事救出しました。
日本で最初の新婚旅行?
手を負傷した龍馬さんは、療養するために西郷隆盛さんの勧めで薩摩藩に向かいます。
約3ヶ月ほどのお龍さんと薩摩を巡る旅行となり、これが日本で最初の新婚旅行とされていますね。
実はこれよりも10年ほど前に、薩摩藩家老・小松帯刀さんが最初の新婚旅行をしており、龍馬さんにそれを勧めたのではという説もあります。
ちなみに、三吉慎蔵さんは龍馬さんを無事に守り抜いた功績により、長州藩主から刀や役職を賜っています。
4年前に起こっていた「寺田屋事件」!!
坂本龍馬さんが役人に襲撃を受けた4年前、1862年に同じ寺田屋で起きた「薩摩藩同志討ち」の事件です。
事件の背景
大老・井伊直弼さん暗殺を水戸藩浪士と共に関わるなど、過激な尊王攘夷活動をしていた薩摩藩士・有馬新七さん。
薩摩藩12代藩主・島津忠義さんの父で、薩摩藩の事実上の指導者である島津久光さんが1000人の兵を率いて京に上洛してきました。
久光さんは、朝廷と幕府が手を取り合う「公武合体」派で、当時は倒幕の意思を持ってはいませんでした。
有馬新七さんら過激志士たちは、幕府との協調路線を勧めていた関白・九条尚忠さんと京都所司代・酒井忠義さんを襲撃し、島津久光さんを無理矢理にでも倒幕へと向けさせようとしていたのです。
しかし、島津久光さんは内々に朝廷から浪士鎮圧の命を受けていました。
寺田屋へ!
島津久光さんは、今回の有馬新七さんらの襲撃情報は事前に知っており、同じ薩摩藩士らを説得に向かわせていました。
しかし説得は失敗、さらには新七さんの上司に当たる永田佐一郎さんはその責任を感じ切腹までしてしまっていたのです。
そして、過激浪士たちは続々と寺田屋へと集まっていきます。その数は40人にものぼりました。
久光さんは、剣術に優れ過激派らと親しかった8名を「鎮撫使」に選び、寺田屋へと派遣します。
「新七と話がしたい。連れ戻せ!」
「もし聞かぬ場合はどのように?」
「切り捨てて構わぬ!!」
寺田屋事件、起こる!
寺田屋に到着した鎮撫使の面々は、新七さんらに説得を試みますが聞く耳を持ちません。
そしてついに、鎮撫使・道島五郎兵衛さんが、主君の命を受け罪人を討つ意味である「上意!」と激高し、過激派の1人を斬り捨てます。
ここに薩摩藩同志討ちが始まったのです。
肩から胸まで斬られ絶命した者、耳を切り落とされた者、頭部を斬られ目が飛び出してしまった者など、悲惨な状態でした。
新七さんは、道島さんと組み合い壁に押さえつけ、「我ごと刺せ!」と同志に命じ、背中から貫かれ絶命しました。
鎮撫使は1名が死亡、1名重傷、4名が軽傷。
過激志士からは6名が死亡、2名が重傷でのちに切腹。
実は、2階にいた大半の過激派たちは1階の状況が分かっておらず、奉行所の役人が来たと誤解をしていた。
「これは君命だ!同志討ちは意味がない!」
と再度、鎮撫使は降りてきた過激志士らを説得し、この騒動は治まったのです。
過激志士らのその後。
薩摩藩士21名は藩に戻され謹慎処分。逃亡した者もいました。
その中に、西郷隆盛さんの弟もいました。
他の藩士たちもそれぞれの藩へ引き渡されます。
引き取り手のない浪人たち数名は薩摩藩で預かるとされたが、船での乗船中に皆、斬り捨てられ海へと投げ捨てられたのです。
この事件により、朝廷からの島津久光さんに対する信頼は大いに高まったといいます。
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