【日本のお城】お殿様はお城の天守閣に住んでいなかった?

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日本のお城のシンボルでもある「天守」

俗に言う「天守閣」です。

 

お殿様が最上階のベランダから城下町を眺めて微笑む――。

そんなイメージのあの場所ですね。

 

しかし、実際天守に上ってみると、かなりガランとして殺風景だなーって思いませんか?

「こんなところにお殿様が住んでたの?」

「あー!何百年も前だから、壊した後なのかな?」なんて。

 

いえいえ違います。

お殿様は天守で寝泊まりなんてしていませんでした。

これ結構驚く人も多いのでは?

漫画などのイメージが強すぎて。

 

という事で今回は、日本のお城のシンボル「天守」について紹介していきます。

住むためでなければ、何のためのものだったのでしょう。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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天守が築かれるようになったのは戦国時代から!

鉄砲伝来によりお城の形が変わる?

1543年、種子島に1艘の船が漂着――。

そして、火縄銃が日本に伝わった瞬間でもあります。

 

戦国時代の中頃まで弓矢や槍が中心だった戦い方に、火縄銃の伝来とともに戦い方が進化していきました。

それに合わせるようにお城も鉄壁な形へと姿を変えていくようになったのです。

 

古来までお城と呼ばれるものは、簡単に言えば施設の周りを柵で囲んだような、今から考えればとても簡易なものでした。

名称も「〇〇(」「〇〇(」と呼んでいました。「(さく」って言っちゃってますね。

 

その後、土製の堤防状の壁である土塁(どるいが作られたり、山の上に城が築かれたり、見張り台としての(やぐらが作られるようになっていきます。

あくまでお城とは住居のためのものではなく、防御施設が目的であったという事が分かりますね。

 

そして、戦いに鉄砲、さらには大砲が使われるようになると、それまで矢や槍を防ぐだけでよかった防御態勢に防弾を加える必要が生じ、石垣(いしがきなどの強固なものが多用されるようになったのです。

 

 

織田信長が天守をつくり、豊臣秀吉が流行らせる!

地下1階、地上6階建ての安土城!

1579年、天下統一を目前とした織田信長(おだのぶながさんは安土(あづちを完成させました。

5階以上の天守を持つお城では日本初だと言われております。4階櫓などや天守という建物で言えばそれ以前にも存在はしていたそう。

 

そもそも天守とは、城主の権威を誇示するための要素が圧倒的に強かったようです。

「どうだ!こんなに豪華絢爛な天守を持つ城を建てることができるんだぞ!!」

といった感じ。

もちろん、城内外を見渡せたり、敵の侵攻を確認することにも長けてはいたのですが、いかんせん大き過ぎると的の標的にもなりますよね。

1614年、豊臣vs徳川の「大坂の陣」の際には、大坂城にガンガン大砲が撃ち込まれてしまっています。

 

安土城も防御施設としてはかなり乏しかったのですが、逆に居住空間に特化した構造となっていました。

私たちがイメージする天守にお殿様が住むとはまさにこれですよね。

 

織田信長を越えようとした大坂城!

1582年、本能寺にて織田信長さんが死去すると、豊臣秀吉(とよとみひでよし(この頃は羽柴(はしば秀吉)さんが台頭してきます。

翌年には、信長さんを超えたいする想いが強かったのか、安土城をモデルに、さらにそれを超えるお城をと大坂城の築城を開始したのです。

築城からわずか1年半で天守が完成します。自らの権力を皆に知らしめるために早急に完成させたかったのだとか。

さらに天守を造る際、大坂の町から天守が良く見えるように配置させました。

豪華な天守に魅了された各国の大名は、これを真似するかのように自身のお城でも天守を造り始め、天守を持つお城がこの頃より急激に広まっていったのです。

 

 

 

15年の歳月をかけて難攻不落と言われた大坂城は完成します。

しかし、1600年「関ヶ原の戦い」で勝利した徳川家康(とくがわいえやすさんによって天下は徳川の世となり、1615年「大坂・夏の陣」により豊臣家は滅亡、大坂城も落城してしまうのです。

 

現在の大阪城は1620年に徳川幕府の手によって再築されたものであり、秀吉さんが築いた大坂城は全て地中深く埋没しているそうなんです。

近年の調査により地下7mに石垣の存在が確認され、それは豊臣家時代のものであると判明しました。

徳川は10mの埋め立てをし、豊臣のお城の痕跡を残さないようにしたということになりますね。

 

 

 

お殿様はどこで生活をしていた?

戦国時代後期に天守を持つお城が次々と造られていきましたが、あくまで天守は権力の象徴の意味が強くあったため、住居としたり、政治の指揮として使うには不都合が多くありました。

天守の外観は派手にお金をかけていましたが、逆に内装は簡素に作り、武器などを置いておくだけの物置として使われていたお城もあるのです。

 

それでは、お殿様たちはどこで生活をしていたのかというと、お城の中の本丸と呼ばれる1階建の御殿にいたようです。

江戸時代に入ると、天守の高さに制限が課せられたり、居城のお城以外は廃城にせよという「一国一城令」の発布でお城の数も劇的に減少していきました。

お城を修繕する際にも幕府の許可がなければ出来なくなり、そのため、天守が破損しても直さず、天守を持たないお城が増えていきました。

その代わりに、住居や政務などで使用していた本丸御殿や二の丸、三の丸などの方を豪華にしていったのです。

 

日本のお城は「これ!」といった感じでイメージが強く残る「天守」なのですが、実のところ、数十年間だけ流行った一種のブームみたいなものだったんですね。

信長さんがブームの火付け役ということに。

天守に住むといったことをするのは歴史史上で織田信長さんだけだったそうなんです。他にもいたのかもしれませんが…。

やはり信長さんはやることのスケールが大きい。

 

「魔王」なんて呼ばれていたくらいですからね。

 

 

 

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