【平敦盛】平家物語で語られる感動秘話!敦盛の最後!

平安時代
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祇園精舎(ぎおんしょうじゃの鐘の音、諸行無常(しょぎょうむじょうの響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ…」の始まりで有名な『平家物語』

平家物語とは、平家の栄華と没落を描いた軍記物語です。

この書き出しも、「盛んな者も必ず衰える」といった内容から始まり、中国、そして日本で栄華を極めたが衰えていってしまった者たちの名を上げ、なぜかせつなさを感じさせるような冒頭となっています。

平氏没落の方をぐいぐい押してる感じがしますね。

 

その平家物語の名場面の一つともされている平敦盛(たいらのあつもりの最後」について今回は紹介していきます。

敦盛は、17歳の美少年であったとされています!

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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平敦盛、プロフィール

1169年に誕生。

平家棟梁・平清盛(たいらのきよもりの弟の平経盛(たいらのつねもりの末子。

 

平家一門が皆、官職に就いていく中、一人無官であったために「無官大夫(むかんたいふ」と呼ばれています。

もちろんこの先も平家が順調に栄え、敦盛くんも長生きしていれば官職に就いていたことでしょう。

 

敦盛くんは笛の名手で、祖父・平忠盛(たいらのただもり鳥羽(とば天皇からもらった笛を父・経盛が与えられ、それを敦盛くんは譲り受けました。

そして、一ノ谷で亡くなったときに、敵将・熊谷直実(くまがいなおざねの手によって平経盛の元へ送られたのです。

 

 

 

熊谷直実、プロフィール

1141年、現在の埼玉県熊谷市で誕生。

子供の頃は「弓矢丸」と呼ばれていて、名は体を表すと言った通り、弓矢の名手となります。まさに名前の通りに育ちましたね。

 

直実と平清盛は遠い親戚!?

熊谷氏は元々平氏で、平清盛さんともちょっと遠い親戚なんです。

父の代から熊谷氏を名乗っています。

ちなみに、平氏と敵対し、後に鎌倉幕府を開く源頼朝(みなもとのよりともさんの妻である北条正子(ほうじょうまさこさんの北条氏も、元々は平氏なんですよ。

 

平氏と源氏を行ったり来たり

直実さんは、頼朝さんの父や兄と共に戦っていましたが、一人前の武士と扱われないことに不満を持ち、今度は平清盛さんの4男・平知盛(たいらのとももりさんの下で仕えるようになります。

 

1180年の石橋山の戦いで平氏方として頼朝さんと戦います。

その後、頼朝さんに従うようになり、1184年に頼朝さんの弟・義経(よしつねと共に一ノ谷の戦いで平敦盛さんと戦うこことなるのです。

 

石橋山の戦いのとき、頼朝さんは平氏方に敗れ山中で隠れている所を敵であった梶原景時(かじわらのかげときと直実さんに助けられます。

その後、景時さんは鎌倉幕府で頼朝さんの部下として重宝されます。

 

直実さんが、山中の洞窟で頼朝さんを匿っているときに、突然2羽の鳩が飛び立ちました。

それを憶えていた頼朝さんから、2羽の鳩が入った家紋を渡されたのです。なんてお洒落なエピソードなんでしょう。

 

 

 

平家物語「平敦盛」

 

戦場は一ノ谷。

源義経の奇策鵯越(ひよどりごえの逆落とし」で平家は混乱に陥り逃げ惑っている。

 

歳も40を超えていた熊谷直実であったが、まだまだ血気盛んに良き敵を探していた。

 

すると1騎の武者が馬を海に入れ、沖の船に向けて泳いでいた。

その武者のいでたちは、鶴の刺繍がされている衣と萌黄の鎧を着て、金色の太刀を持ち、灰色に円い斑点が付いて銭を連ねた様な模様の連銭葦毛(れんぜんあしげの馬にまたがっている。

 

直実は叫ぶ、「よき大将軍と思われる。卑怯にも敵に背を向けるか!戻れ、戻れ!」

 

直実は、引き返してきた武者を波打ち際で取り押さえる。

首を切ろうと兜を脱がすと、薄化粧をし、お歯黒をした我が子と同じ16、7歳ほどの美少年だった。

 

「あなたはどのようなお方だ!名乗りたまえ!助けてやる。」と直実。

「まずそなたから名乗れ!」

「まだまだ知られてはいないが、武蔵国の熊谷直実と申す!」

「あなたにとって良い敵だ。名乗らなくても首を取って人に尋ねてみよ!さあ、首を取れ!」

「あっぱれな大将軍!あなたを打ち取ったとしてもこの戦の勝敗が変わるわけでもない。
この戦いで我が子が傷を負い、私はとても悲しかった。
あなたの父が、あなたが討たれたと知ればさぞ悲しむことでしょう。

お助けします。」

 

しかし、後ろを振り向くと50騎ほどの味方の軍勢が近づいてきている。

「ああ見てください…。お助けしたいのですが私の味方の軍勢が迫ってきています。もはやお助けすることは叶いません。

せめて私が手をかけ、後世を弔い仕ります。」

 

そして、直実は武者の首に手をかけました。

「武士の家に生まれてこなければ、このようなつらい目に遭うこともないのに…。」と、袖に顔を押し当てて泣き続けた。

 

その場を立ち去ろうとしたとき、綿の袋に入れられた『笛』を見つけました。

「なんと、明け方に一ノ谷の城から笛や弦の音色が聞こえたのは、この方たちだったのか。
源氏には戦場に笛を持参しているものはいないだろう。

この方たちは、戦場でも優雅を忘れてはいないのだな…。」

 

この頃より、直実は仏門に入る思いがいっそう強くなったといわれています。

笛は、武者こと平敦盛の父・経盛の元へ送られました。

 

 

織田信長も舞「敦盛」を好んでいた!

この平家物語の名場面は、能や舞、歌舞伎などの題材とされるようになります。

 

舞『敦盛』に、

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり。一度…」

という一節があります。

織田信長(おだのぶながはこれを大変気に入り、戦国時代での今川義元(いまがわよしもとととの一戦「桶狭間の戦い」の前夜に舞ったとされています。

 

信長さんは、「天上世界と比べれば、人間の一生は儚い。ならば死ぬ気で事を成そう」

という意味で使っていますが、実はこれは熊谷直実さんの嘆きの言葉なのです。

「命ある者は全て滅びてしまう。夢や幻のようだ。」といった内容です。

 

言葉って、人の捉え方、使い方で全く正反対になるものですよね。

 

 

まとめ

武士の家に生まれたからには手柄を上げたいという思いと、人の親になったからこそ分かる、我が子と同じ年頃の子を殺さなければいけないのかという葛藤を持った熊谷直実。

そして、それに応えるように敦盛の死を恐れない一面、自分よりも身分の低い相手に名乗らない誇り高い一面を描いた平家物語の『平敦盛』。

 

武士の一生懸命な生き様を魅させられた気がしますね。

 

 

 

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