【元号の歴史】日本最初の元号は大化!645年の大化の改新は56年も続いていた?

飛鳥時代
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「明治、大正、昭和、平成、そして…。」

日本では当たり前のように使われている元号なんですが、現在これを使用しているのは日本だけなんです。

 

中国(その頃は唐)を参考に元号を使い始めたのが、645年「大化」が最初。

そうです、あの有名な「大化の改新」が起こった年ですね。

「王子とかたまりさんがそがのさんを暗殺したのが大化の改新」と、ほとんどの皆さんがそう覚えているのではないでしょうか?

しかし、これちょっと違っていたんですね。

 

ということで今回は、誰もが知っている「大化の改新」とは、本当は何なのかを紹介していきます。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件は「乙巳(いっし)の変」という!

蘇我氏とはどんな一族?

6世紀から7世紀にかけて力を持っていた一族であり、代々天皇の補佐を任され政務を行なっていました。

一族の娘を天皇に嫁がせるなど天皇家との関係を強固たるものにし、次第に天皇よりも発言力を持つほどまでになっていくのです。

 

蘇我馬子(そがのうまこさんによる天皇暗殺、子・蘇我蝦夷(そがのえみしさんは天皇をないがしろにする行為が目立ち、さらに蝦夷さんの子・蘇我入鹿さんは自身が推薦する皇子を天皇とするため、次期天皇に最も近かった聖徳太子さんの子を自害に追い込んでしまうのです。

 

ちなみに、歴史史上と言っても過言ではない誰もが知ってる聖徳太子さん。この方は31代天皇の第2皇子なのですが、父も母も妻も皆が蘇我家の流れを組んでいます

 

蘇我入鹿さんの邸宅は、天皇家の住まいを見下ろせる位置に築かれており、さらには天皇家と同じように邸宅を御門(みかど、子らを「皇子」と呼んでいました。

このように、蘇我家は三代にわたり権力を欲しいがままにしていたのです。

 

聖徳太子と蘇我氏

33代天皇・推古(すいこ天皇の時代、聖徳太子さんと蘇我馬子さんは共に協調して政治を行っていました。

この2人の関係は、甥と大叔父。さらに馬子さんの娘を妻として迎えている関係でもあります。

 

622年、聖徳太子さんが亡くなると蘇我氏を抑える者がいなくなってしまい、馬子さんの後を継いだ子・蝦夷さんは、血統的にも人間的にも有能であった聖徳太子さんの子・山背大兄王(やましろのおおえのおうを退け、別の皇子を天皇に即位させることを強行しました。

聖徳太子さんの家系が力を持つことを恐れたためと言われております。

 

643年、入鹿さんの代になると山背大兄王が邪魔な存在となり、軍勢をさしむけ邸宅への攻撃を開始、山背大兄王の一族は自害してしまったのです。

これにより聖徳太子さんの血を引く者たちは誰もいなくなってしまいます。

蘇我氏の天下となると思われましたが、父・蝦夷さんは入鹿さんの行為を、

「自分の身を危うくするぞ!」と、嘆いたといいます。

 

そして僅か2年後、その言葉が真実のものとなるのです。

 

中大兄皇子と中臣鎌足の出会い!

蘇我入鹿さんの横暴な振舞いに憤り、打倒計画を密かに進めていた人物がいました。

日本史上最大の氏族「藤原氏」の始祖である中臣鎌足(なかとみのかまたりさんです。

 

鎌足さんは、この計画の中心と成りえる人物を探していたところ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじと運命的な出会いを果たします。

蹴鞠(けまりをしている場で、自身の靴を飛ばしてしまった皇子。

鎌足さんはそれを拾い皇子の元へ届けます。

その時、皇子のとった行動は身分の差を感じさせない、膝をつき丁寧にお礼を述べたのでした。

「この人だ!」と、感じた鎌足さんは皇子に蘇我氏打倒を打ち明けたのです。

人選を読み間違えれば、鎌足さんにとって身を滅ぼす結果となってしまうため、かなり慎重であったと思われますね。

実際、中大兄皇子に接触する前に軽皇子(かるのみこに近づきましたが頼りなさを感じたそう。

35代天皇・皇極(こうぎょく天皇の子が中大兄皇子であり、天皇の弟が軽皇子であります。

 

さらに、入鹿さんの従兄弟に当たる蘇我一族長老・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろさんも味方に付けた中大兄皇子と鎌足さんは、645年6月、ついに決行する時がきました。

蘇我氏皆が独裁的なわけではなく、蘇我宗家が実権を握っていたのです。それにしても長い名前ですよね。

 

645年、「乙巳の変」起こる!

古代の朝鮮半島の三国、新羅(しんら百済(くだら高句麗(こうくりからの使者が来日。外交の儀式が行われようとしているその日、天皇の御前であるため武器を手放した入鹿さんが入朝しました。

 

長槍を持つ中大兄皇子と弓矢を構える鎌足さんは殿側に隠れ、2人に推挙され入鹿さんを切る役目を任されていた佐伯子麻呂(さえきのこまろさんと葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみたさんにも剣を与え忍ばせます。

この2人は、あまりの緊張で飯を吐き出すありさまで、さらには、入鹿さんと並んで鎮座し、上表文を読み上げていた蘇我倉山田石川麻呂さんも恐怖心から声が浮つき、手が震え、全身汗まみれでした。

「なぜに震える?」

不審を感じた入鹿さんが問うと、

「天皇の御前により、緊張しているのです。」

 

子麻呂さんらが恐れて出られないと判断した皇子は自ら先陣を切り飛び出す。それを見て勢い付いたのか、子麻呂さんらも飛び出し入鹿さんを斬りつけます。

斬られた入鹿さんは天皇に向け、

「私に何の罪があるのか!?」

「入鹿は皇族を滅ぼし、皇位を奪おうとしました!」と、皇子は答えます。

そのまま子麻呂さんと網田さんは入鹿さんに止めをさしたのです。

 

翌日、入鹿さんの父・蝦夷さんは自らの館に火を付け自害してしまいました。こうして蘇我宗家は滅びたのです。

 

この出来事を「大化の改新」と覚えがちなんですが、この出来事は「乙巳の変」といいます。

 

 

「大化の改新」とは暗殺事件ではなく、何年にも渡る政治改革のこと!

日本初めての元号「大化」!

蘇我宗家が滅亡した翌日、中大兄皇子は軽皇子を新たに36代天皇・孝徳(こうとく天皇として即位させます。自身が天皇とならなかった理由としては、自らが天皇になるためにクーデターを起こしたと思われないためと言われています。

中大兄皇子は皇位継承第一位である皇太子(こうたいしとして政治の実権を握り、これは、聖徳太子さんの例を習ったとされています。

蘇我倉山田石川麻呂さんや中臣鎌足さんを大臣と内臣として置き、新政権発足を成しました。

唐の制度を参考に運営し、さらには元号を初めて定め、「大化」としたのです。

 

 

 

「改新の詔(みことのり)」の発布!

646年の大化2年1月1日、新政権は政治の方針を示した「改新の詔」を発しました。

その内容は4条からなり、

「王族や豪族たちが所有していた土地や人民を全て天皇のものとすること、日本を国や郡に分け中央から国司(こくしを派遣しそれが地方を組織する。そして、新しい税制度を示す」

といった内容でした。

 

あくまでこの「改新の詔」は方針を示すために発せられたものであり、これに記された内容が実現されるまで50年以上かかったといいます

701年の大宝元年に大宝律令(たいほうりつりょうが制定されたことにより、日本は「律令国家」となり、聖徳太子さんも目指していたという天皇を中心とした法律国家が誕生したのです。大宝律令の名称にも元号が使われていますね。

 

これらを全てひっくるめて「大化の改新」と呼ぶのです。

入鹿さんが殺されたことだけではなかったんですね。

 

 

 

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