【生類憐みの令】命の重さの価値観を変えるための政策だった?

江戸時代
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生類憐(しょうるいあわれみの令」は有名ですよね?

なんとなくのイメージとしては、徳川の将軍様がいきなり「犬を守れー!」「生き物を大切にせー!」って出した法令です。

そのため民衆は大混乱!「どーゆーこったい⁉︎」と、みんな慌てふためきます。

 

意味不明な御触れに「悪政」のイメージがついてしまい、この時の将軍様であった徳川幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよしさん犬公方(いぬくぼうなんていう「バカ殿」扱いされてしまうんです。

 

しかししかし、最近になって綱吉さんの評価に「待った!」がかかるんですね。

本当にただの何も考えていないお殿様だったのか?

「生類憐れみの令」は犬好きお殿様のわがまま法令だったのか?

 

ちょっと紐解いてまいりましょう。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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徳川綱吉さんはどんな将軍?

徳川幕府3代将軍・家光(いえみつの4男として誕生。

兄の4代将軍・家綱(いえつなさんが亡くなり、後継ぎがいなかったために、弟の綱吉さんにお声がかかり5代将軍となります。

父・家光から儒学を叩き込まれており、大変学問好きな将軍であります。

 

戦国時代の殺伐とした空気がまだまだ残る世を排除しようと、礼儀や法、学問を中心とする文治政治(ぶんちせいじというものを行います。

 

これだけ見ると、「バカ殿」要素は微塵もないですよね。逆に名君主の匂いさえ感じられますせんか?

 

 

戦国の世の名残がまだまだ続いていた?

戦国時代とは、人を倒して褒められる時代でした。

自分の領土に迫り来る敵を倒し、自らも敵の領土を攻め大きくしていく、誰もが天下を取るチャンスがあった時代。

味方であった者が裏切り、それが敗北に繋がる。いつ仲間に裏切られてしまうのか、はたまた自分が裏切りものになってしまうのか?

そんな殺伐とした時代、人を殺すことに「罪」の意識はなかったのです。

 

徳川幕府誕生から80年以上経ち、争いは無くなったとしても民衆の間にはまだまだこの価値観は根付いたままでいました。

武士が刀の試し切りとしてなにも関係のない町人を切ってしまう「辻斬り」、それが動物などにも行われていたりもしました。

喧嘩をしても殺し合うまでしてしまう、農民の家で食べる物が無くなれば簡単に老人や子供を捨ててしまっていたのです。

 

そんな民衆の「命の価値観」に革命を起こそうとしたのが、なにを隠そう我らが「徳川綱吉将軍」「生類憐れみの令」だったのです。

 

 

生類憐れみの令の始まり

有名なお話であれば、綱吉さんに後継ぎが生まれないことに嘆いた母が信頼していた僧にアドバイスを貰います。

「上様は前世で殺生してしまった罪で後継ぎがお生まれにならないのです。なので生き物を大切にして下さい。上様は戌年生まれだから特に犬を大切に!」

というアドバイス。アドバイス??

しかし、実際この時にこの僧は江戸にいなかったと言われていますので、デマであった可能性が高いのです。
もしかして綱吉さんを「犬公方」とし、陥れる陰謀でもあったのでしょうか?考え過ぎですかね?

 

そして、この時代の捨て子や病人、動物たちへの民衆の扱い方に憂いた綱吉さんは「生類憐れみの令」という方法をとったのです。

 

 

生類憐れみの令で世の中はどうなった?

まず、生類憐れみの令とは1回の御触れのことではなく、24年間に出された135回もの御触れの総称のことです。

何度も何度も出されたのは、民衆が全く守らず、幕府がその度に御触れを追加するという堂々巡りのようなやり取りが永遠続いたためです。

こういうこともあってか、綱吉さんと生類憐れみの令に悪いイメージが付いたのだと思われます。

 

地方に行けば行くほど守られず、大っぴらにしなければ禁じられていた釣りをしていても注意されるぐらい、長崎では「豚や鳥を食べるのを止めなさい!でも外国人は食べていいよ。」なんていうハチャメチャな状況でした。

 

綱吉さんは、捨て子や病人の配慮、命を奪うことに対する罪の意識を芽生えさせるといった意識改革をするつもりだったはずです。

しかし、守らない民衆たちとの135回のやりとりの中で、何をしたかったのか分からなくなったのかもしれません。

 

もちろん民衆たちにも悪気はありません。もともとあった価値観を変えることは容易ではないのです。

けれど、無謀とも取れるこの政策から、確実に民衆の意識は変化しつつあったのです。

「生き物を殺すことはいけないこと」という現代では当たり前の考えは、この頃から生まれたとされています。

 

綱吉さんはとても意味のある政策を打ち出していたのです。

 

 

生類憐みの令はここまで凄い!!

・犬が行方不明になったら徹底的に探し出せ。

・魚釣りは禁止。

・子犬が遊びに出るときは親犬も一緒に。

・ノミ、蚊、蝿にいたるまで殺してはいけない。

・馬にたくさんの荷物を背負わせてはならない。

・魚介類を養殖して売ってはならない。

こういう内容がまだまだたくさん。

 

そして、違反したものは切腹、投獄、流刑…。嘘か真か?

もし真実なのであれば、本来の政策が迷走しちゃっていますね。

 

実際は、処罰されたのは年間で数人だけと言われています。小説の中の話の様なので、事が大きく解釈されてしまったのでしょう。面白おかしく盛ってしまいそうな出来事ですからね。

 

そしてそして、江戸の町(現・中野)に巨大な犬小屋を作ってしまう始末。10万匹もいたとか…。エサ代が馬鹿にならなかったといいます。

さすがに民衆の反感を買っちゃいますよね。

 

 

水戸黄門さまで有名な水戸光圀さんも怒って、綱吉さんに犬の毛皮を送りつけたとも言われています。

 

 

 

中野駅近くの犬小屋があった場所には、このような犬の銅像が建てられています。

 

 

まとめ

綱吉さんは遺言で「このまま法令を残せ!」と言っていますが、死後わずが10日後には廃止されてしまいました。もちろん、巨大な犬小屋も取り壊しです。

しかし、捨て子や病人の保護は廃止されず継続されていきます。

 

人々の意識改革という素晴らしい法令を打ち出したにも関わらず、あまりにも突飛過ぎて民衆から理解をされず、だんだんと目的からずれて行ってしまったのではないでしょうか。

そして亡くなった後にやっと、迷走する前の本来の形の素晴らしい政策に戻れたのです。

 

「天才は死してから理解される」というやつです。

 

 

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