【三大怨霊の天皇】崇徳天皇が三大怨霊に数えられてしまった理由!

平安時代
スポンサーリンク

第75代崇徳(すとく天皇は、出生の原因から、父であるとされている先代・鳥羽(とば天皇から嫌われていました。
鳥羽天皇のおじちゃんである白河(しらかわ天皇の子という噂があったからです。

 

そして、弟である第77代後白河(ごしらかわ天皇との保元(ほうげんの乱で負けた崇徳天皇は、讃岐国(さぬきのくにに配流されてしまいます。

配流先でどのような生活を送ったのか?

そしてなぜに「三代怨霊」の1つとまで言われてしまったのか?

それではいってみましょう。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

スポンサーリンク

崇徳天皇の生い立ちを簡単に!

崇徳天皇は、形式上は第74代鳥羽天皇の子です。

しかし、鳥羽天皇の妻・璋子(たまこは第72代白河天皇と関係があったとされているのです。

そのため、鳥羽天皇の長男である崇徳天皇は白河天皇の子供ではないかと噂されていたのです。

簡単に言えば、自分の妻がおじいちゃんと不倫関係にあったということですね。

 

しかも、おじいちゃんは自分の子可愛さに、鳥羽天皇を王位から退位させ、崇徳天皇に譲ってしまうのです。

鳥羽天皇は完全に政治の世界から追いやられてしまいます。

さすがにここまでされると恨みは大きくなりますよね。

 

そして、白河天皇が亡くなると、鳥羽天皇の恨みの矛先は崇徳天皇へと降りかかりました。

自分がやられたように、崇徳天皇を王位から退位させ、自分の子を天皇へ。

その子が早くに亡くなってしまえば、崇徳天皇の子ではなく、崇徳天皇の弟・後白河天皇を天皇にします。

断固として、「崇徳天皇の子孫には王位は渡さん!」ばりに。

 

しまいには、鳥羽天皇が亡くなる時には、「私の遺体は崇徳には見せるな!」と言い残したと言われているのです。

 

最後まで、父に愛されなかった人生だったのです。

 

 

 

この記事には全て「○○天皇」と書いていますが、基本的には天皇は1人です。
天皇の座を譲った方は「上皇」となります。

 

 

 

 

配流先での生活は?

崇徳天皇は、弟の後白河天皇との「保元の乱」に敗れ、讃岐国(香川県)に配流されてしまいます。

天皇の配流は400年ぶりの出来事なのです。

 

恨みを持って生活していた訳ではない?

崇徳天皇は、京の土をもう一度踏みたいといった寂しさや悲しみの生活を送っていましたが、怒りや恨みを持っていたとはされていないのです

その頃に詠んだ歌にも、恨みの感情は現われていませんでした。

 

極楽往生を願い仏教に深く関わり写本づくりに専念していました。

戦死者の供養と反省の証の完成した写本を京の寺に納めてほしいと朝廷に差し出します。

 

本当に自分の罪と向き合えるような立派なお方だったのだと思われます。
実際、父の恨みのとばっちりにあったようなものですからね。

 

怨霊伝説

「呪いが込められているのではないか?」

後白河天皇は崇徳天皇の写本を送り返してしまいました。

 

ついにこの仕打ちに対し、崇徳天皇は激しく怒り、舌を噛み切り写本に、

「我は、日本の大魔王となり、天皇を民に、民を天皇にする!」と血で書き込んだのです。

 

配流生活から8年後、恨みを持ち続けたまま亡くなりました。

亡くなるまで爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿だったとされています。

 

優しい人間は、怒ると恐いのです。

 

 

崇徳天皇が亡くなった後、何が起こった?

崇徳天皇が亡くなっても、朝廷からは罪人という認識のまま措置はなかったのです。

 

しかし、崇徳天皇が亡くなって10年ほど経つと状況は一変

後白河天皇の妻や近い者たちが相次いで死去したり、「延暦寺の強訴(ごうそ」「安元の大火」など、社会の安定が崩れるようなことが立て続けに起こります

 

皆が崇徳天皇の怨霊と噂するようになり、精神的に追い詰められていた後白河天皇も、「保元の乱」の戦場跡に霊を祀る「崇徳院廟(すとくいんびょう」が作られたり、亡くなった近くに建てられたお寺の保護が与えられました。

昔から霊は恐ろしい物とされていたんです。どうすることも出来ないですからね、お参りするしか。

 

武士が政権を握る時代へ

「我は、日本の大魔王となり、天皇を民に、民を天皇にする!」

この言葉通り、平氏や源氏の台頭。

鎌倉幕府からは武士が政治の実権を握るようになります。

室町時代の足利氏。

戦国時代では、各地の武士が勢い付き、最後には百姓出身の豊臣秀吉(とよとみひでよしが天下を取ります。

260年続いた徳川幕府。

武士の時代から700年近くたち、やっと「大政奉還(たいせいほうかん」で政権は天皇に返されます

 

そして、明治天皇は崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ、白峯神社(しらみねじんじゃを創建。

昭和天皇は、1964年に香川県で「崇徳天皇八百年祭」という式年祭を行っているのです。

 

天皇家にとって、崇徳天皇は切り離せないものとなっていったのですね。

 

 

 

 

まとめ

崇徳天皇の「怨霊伝説」について紹介しました。

もともとは父とそのおじいちゃんの悪い関係に、崇徳天皇が巻き込まれてしまったという感じでしょうか。

弟との戦いで敗れ、讃岐国に追いやられてしまっても、自分を保ち穏やかに生活をしていたのに、またもや最悪の仕打ち。

これには我慢していた何かが切れ、怨霊にまでなってしまっても仕方ありません。怖いですが…。

 

もし、崇徳天皇が何も問題なしに天皇を継続していたら、穏やかな世になっていたような気さえしてきますね。

会ったことないですが、心優しい青年のような感じがします。

会ったことないですが…。

 

2度目ですが、

優しい人を怒らすと恐いのです。

 

 

この記事がおもしろかったら
いいね ! お願いします

平安時代
スポンサーリンク
haruをフォローする
スポンサーリンク
歴史好きのためになるブログ

コメント

タイトルとURLをコピーしました