崇徳天皇と聞いて、「どなた?」ってなるかもしれませんが、このお方、日本の「三大怨霊」の一つに数えられているお人。
そんなの数えなくていいよーって思いますが…。
「学問の神」と呼ばれている菅原道真さんや平将門さんは結構有名ですよね。
この2人と崇徳天皇を合わせて「三代怨霊」と呼ばれているのです。
皆悲劇の死を遂げてしまい、その後に数々の奇怪な現象が起こるので、「三代怨霊」なんて呼ばれるようになってしまっているのです。
しかも、今回紹介する崇徳天皇は、生前から「我は天皇家を呪うからー!」って宣言してしまっているお方なのです。
3人の中でも最強なんです。
今回は、なぜにそんな恨み満載の人生を送ってしまったのか紹介していきます。
それではまいりましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
崇徳天皇は誰の子?
第75代天皇である崇徳天皇の父は第74代鳥羽天皇で、系図上ではもちろん親子にあたります。
しかし、崇徳天皇の母、そして鳥羽天皇の妻でもある藤原璋子は、第72代白河天皇とも関係を持っていたのです。
鳥羽天皇からすればおじいちゃんにあたる方ですね。
実は、崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく、白河天皇の子と噂されていたのです。
白河天皇は崇徳天皇が自分の子だと知っていたのでしょう、とても気にかけており、崇徳天皇が3歳ぐらいになると、鳥羽天皇を強引に退位させてしまうのです。
崇徳天皇の誕生です。
そして白河天皇もまだまだ権力を振るい続けます。鳥羽天皇は蚊帳の外です。
鳥羽天皇の反撃!
鳥羽天皇も、崇徳天皇のことを「叔父子」と呼び忌み嫌っていました。
祖父の子は叔父ですからね。この親子関係は、皆が分かっていたことだったんですね。
崇徳天皇10歳頃に、白河天皇が亡くなると、ついに鳥羽天皇が実権を握り始めます。
まずは、白河天皇の側近たちを排除し、白河天皇に遠ざけられていたものたちを呼び戻します。まあそうなりますよね。
藤原璋子も遠ざけられ、鳥羽天皇は藤原得子を傍に置くようになります。
そして、得子が産んだ近衛天皇を3歳で即位させてしまいます。
自分がやられたように、崇徳天皇に退位を迫ったのです。
鳥羽天皇の罠!
鳥羽天皇は、崇徳天皇に近衛天皇を養子にすることを勧めてきます。
そうすれば、崇徳天皇は天皇の「父」ということで、政治に関与していけるからです。
そして、崇徳天皇は近衛天皇に王位を譲ります。
しかし、ここに鳥羽天皇の罠が隠されており、天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれていたのです。
ということは、近衛天皇は崇徳天皇の「父」ではなく「弟」であり、崇徳天皇は政治を行うことは出来なくなってしまったのです。
保元の乱へ!
しかし、近衛天皇は病弱だったために、17歳という若さで亡くなってしまいます。
近衛天皇には後継ぎが折おらず、崇徳天皇はチャンスが回ってきたと思いました。
崇徳天皇は、自身の子、重仁親王を即位させることを望みます。
ここでまたまた鳥羽天皇の登場。断固として崇徳天皇を許しはしません。
崇徳天皇の弟でもある29歳の後白河天皇を即位させてしまうのです。
後白河天皇は、若い頃から遊び呆けていたような人物で、出来が悪いとまで言われていたお方だったのです。
しかし、この後白河天皇はのちに「天下の大天狗」と呼ばれるようになります。
平氏や源氏の有名どころ、平清盛、源頼朝と争うような超有名人になるのです。
実際、この人は天皇の弟ということで自分の立場をしっかり理解していた人だったのでしょう。
長男でなければ天皇の座はめったに回って来ません。自分に関係なければ遊び呆けえいた方が気楽ですからね。
しかし、いざ表舞台に立てば十分なポテンシャルを発揮し出します。
実は、一番賢いのはこのお方?
そしてついに、崇徳天皇VS後白河という構図が完成されてしまい、源氏平氏を巻き込む保元の乱へと突入することになるのです。
最後まで父に愛されず
保元の乱が始まる最中、鳥羽天皇が亡くなります。
崇徳天皇は、最後はやはり父である鳥羽天皇を見舞いたいと訪れますが、対面を果たすことは出来なかったのです。
実は、鳥羽天皇は自分の遺体を崇徳天皇に見せるなと言い残していたのです。
鳥羽天皇の恨みは相当なものだったのでしょう。
しかし、それは祖父である白河天皇が起こしたことであり、崇徳天皇はただのとばっちりですよね。
なぜにここまで嫌われなければならなかったのかという思いだった事でしょう。
この記事には全て「○○天皇」と書いていますが、基本的には天皇は1人です。
天皇の座を譲った方は「上皇」となります。
まとめ
今回は、天皇家の人間関係に巻き込まれてしまった崇徳天皇を紹介しました。
白河天皇の政治の渦に巻き込まれた、孫の鳥羽天皇。
その仕返しにも取れる崇徳天皇へ対する鳥羽天皇の恨み。
そして、最後の反抗として保元の乱へと進んでいく崇徳天皇。
こう見ると、崇徳天皇に、悪い部分は一つもなかったように思われます。
その理由もあって、恨みの念が強くなったのかもしれません。
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