【幕末の激動】薩摩藩の動向で長州藩と会津藩の命運が分かれる?

江戸時代
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江戸時代の頃の日本は、藩が一つの国のように個々の考えを持っていました。

幕末に入ると、「開国」「佐幕」「攘夷(じょうい」「倒幕」などといった考えの違いで藩同士が争っていたのです。

 

今回は、「外国を追い払え!」といった過激な長州藩

「幕府のために我が藩はある!」といった会津藩。

そして、このどちらに味方するかで今後の命運を握ることになる薩摩藩について紹介していきます。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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会津藩主・松平容保、「京都守護職」に任命!

ペリー来航から、日本は幕末期へと突入していき、外国に対する弱腰姿勢の幕府を倒せと、京都に過激な浪士たちが集まり出し治安の悪化が深刻な状態でした。

浪士たちによる幕府要人の暗殺、商家への強盗は収まるところを知りません。

 

そこで、幕府は会津藩主・松平容保(まつだいらかたもりさんに京都守護職を任命したのです。

大役に喜んだという訳ではなく、実はその逆で、容保さんも家臣たちも断り続けていたのです。

会津藩の財政はかなり厳しい状況にあり、京都を守っている場合ではなかったのですね。

しかし、「会津藩は、将軍家を守護するために存在する」という会津藩家訓を持ち出され、しぶしぶ承諾するしかありませんでした。

「これで会津藩は滅びる」と嘆いた家臣もいたとか。

 

「京都守護職」とは誰でもなれるものではない、もの凄い大役のイメージがありましたがそうではなかったのですね。

しかも、この任を受けてしまったせいで「会津戦争」の悲劇が起こってしまったと言っても過言ではないのです。

 

 

 

長州藩、衰退からの盛り返し!

新撰組を会津藩お預かりに!

将軍護衛のために江戸で結成された「浪士組」の中に、近藤勇(こんどういさみさんや土方歳三(ひじかたとしぞうさんら面々がいました。

容保さんは、近藤さんたちを「会津藩預かり」とし、のちに「新選組」となり京都の治安維持にあたらせたのです。

 

八月十八日の政変!

1863年5月、長州藩が下関海峡で「外国船砲撃事件」を起こします。

これは、外国を打ち(はらえという「攘夷」決行ののろしでもありました。

しかし、あとに続く藩はおらず、逆に長州藩の行動は危険と判断されてしまうのです。

 

そして、朝廷からの許しも得た会津藩と薩摩藩が中心となって、長州藩を京都から追放したのです。

長州藩主は謹慎処分となってしまいます。

 

これが、1863年8月18日に起こったので「八月十八日の政変」です。とても覚えやすい!

 

池田屋事件!

「祇園祭の前の風の強い日、京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮親王(なかがわのみやしんのうを幽閉、松平容保ら大名を暗殺、天皇を長州へ連れ去る」

といった、長州藩の陰謀

それを未然に察知、池田屋で会合していた長州藩らを会津藩配下の新選組が襲撃し捕縛に成功した事件。
新撰組を一躍有名にした事件でもありますね。

 

長州藩の逸材たちが池田屋で命を落としたことにより、明治維新が1年遅れたとも言われているのです。

 

 

 

禁門の変!

池田屋事件の翌月、長州藩は「長州藩主の冤罪を天皇に訴える!」ことを名目として挙兵します。

背水の陣ともいえるような状況で挑んだ長州藩は、またしても会津・薩摩藩率いる幕府軍に敗れてしまいます。

京都での戦闘で、長州藩が御所に向かって発砲したということが、藩主冤罪を訴えるどころか、逆に追討令が発せられてしまいます。

長州藩は朝廷に敵対する勢力「朝敵」とされてしまったのです。

 

長州藩の会津・薩摩藩への恨みはますます膨れ上がっていったのです。

 

第一次長州征伐!

禁門の変よりわずか2日後、朝廷は幕府に向けて「長州征伐」の命令を下します。

長州征伐の参謀となった薩摩藩・西郷隆盛(さいごうたかもりさんは「長州藩主の謝罪文、長州藩家老3人の切腹、山口城破却」などを実現させ、戦闘せずに長州を敗北させました。

 

この頃に、西郷さんは幕府の勝海舟(かつかいしゅうさんと会い、幕府に代わる新しい政権の話をしていたと言われています。

のちの「江戸城無血開城」にも2人は関わっていきますね。

 

 

 

薩長同盟!

超有名人!坂本龍馬さんが仲の悪かった薩摩藩と長州藩の間を取り持って同盟を組ませたやつですね。

 

会津藩と共に幕府側にいた薩摩藩ですが、「薩英(さつえい戦争」でイギリスとの繋がりを強めた薩摩藩は幕府を倒し新政府樹立の方向へと考え出します。

しかし、薩摩藩だけで倒幕を進めるのも無謀という状況でした。

 

長州藩は、朝敵にされていて、武器の購入も禁止されていました。

しかし、この同盟を組めば、薩摩名義で武器を手に入れることも可能となるのです。

 

お互いの利害が一致したことにより、「薩長同盟」は成されたのです。

 

もちろんお互い敵同士であり、プライドが邪魔をし安易に同盟が成功したわけではありません。

そこを坂本龍馬さんの交渉術が炸裂したということですね。

 

第二次長州征伐!

薩長同盟により、武器の補強などで勢いを取り戻そうとしている長州藩。

幕府は、朝廷から再度「長州征伐」の許しを得、長州へと進軍するのです。

 

しかし、薩摩藩は同盟の件もあり出兵を拒否、そして長州藩は薩摩藩経由でイギリスから最新鋭の軍艦や武器を大量に購入しており、15万もの幕府軍を次々に撃退していくのです。

しかも長州征伐中、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもちさんが亡くなってしまったのです。

幕府は休戦を申し入れ撤退。

事実上、幕府側の大敗となります。

この戦いがきっかけとなり、幕府の衰退が強まっていくことになります。

 

 

会津藩が「朝敵」!?

「大政奉還」と「王政復古」!

長州征伐に失敗した幕府軍、さらにその年の12月には、会津藩主・松平容保さんが最も頼りにしていた孝明(こうめい天皇も亡くなってしまいます。

これにより、朝廷と幕府の結びつきを強める政策だった「公武合体(こうぶがったい」が揺らぎだします。

 

15代将軍になった徳川慶喜(とくがわよしのぶさんが政治を幕府から朝廷に返す「大政奉還(たいせいほうかん」を成し、その2ヶ月後には新政府樹立の「王政復古(おうせいふっこの大号令」が発せられ、江戸幕府は完全に廃止となったのです。

 

 

 

戊辰戦争開戦!

会津藩は、新政府軍の薩摩藩、長州藩と「鳥羽・伏見の戦い」で戦います。

 

この戦いで、旧幕府軍は朝廷に敵対する「朝敵」とされてしまい、今度は会津藩が朝敵の汚名を着せられてしまったのです。

 

鳥羽・伏見で敗戦した旧幕府軍は江戸へと敗走、そして、会津藩は戊辰戦争最大の悲劇ともされる「会津戦争」へと進んでいくのです。

 

 

まとめ

今回は、幕末における会津藩、長州藩、薩摩藩の関係について紹介していきました。

 

当時は、同じ日本国内であっても藩が違えば別の国といったような感じです。

もちろん考え方も違ってきますよね。

幕府を倒したくていきり立つ長州藩と、幕府のために戦う会津藩、幕府を倒したいけど上手くやりたい薩摩藩といったところでしょうか。

 

こういう関係性を追っていくのも歴史の醍醐味ですね。

 

 

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