【真田幸村】人質、敗戦、幽閉?遅咲きの戦国武将!

戦国時代
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今回は戦国武将真田幸村(さなだゆきむらさんについて紹介していきます。

本来ならば、もっと活躍出来たはずの武将とまで言われているお方なのです。

「大坂の陣」では豊臣方として活躍し、徳川家康(とくがわいえやすさんを追い詰めた幸村さんでしたが、最後には負けてしまいます。

しかし、もし幸村さんが勝利していたら、現在の首都が「大阪」になっていたかもしれないという日本の未来を変えかえぬ運命を背負っていました。少し大げさですが…。関西弁が標準語でしたね。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

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真田幸村、簡単プロフィール

の前に!

 

真田幸村ではなく真田信繁(のぶしげが本名?

真田幸村の名前で広く知られていますが、本名は「真田信繁」なんです。

幸村さんの父・真田昌幸(まさゆきさんが主君・武田信玄(たけだしんげんさんの弟・武田信繁さんから頂戴しました。

武田信繁さんは、兄を支えるとても人望のある武将だったそうです。

 

真田家には幸村さんの上に兄・真田信幸のぶゆきさんがいます。

この兄弟、兄が「源三郎げんざぶろう」、弟・幸村さんが「源次郎げんじろう」と呼ばれていました。

普通は逆なんです。上から太郎、次郎、三郎…。こんなところも真田家の面白いところ。

異母兄弟なのではという説もありますね。

 

真田信繁さんが、「幸村」の名で呼ばれるようになったのは、死後60年後の軍記物の中からでした。

「幸村」の由来としては、真田家の通字とおりじである「幸」の字と、徳川家に仇なす妖刀ようとう村正むらまさ」からという説があります。まさに軍記物といった感じ。

 

「関ヶ原の戦い」では、東軍と西軍に父子が別れて戦った真田家。

兄・信幸さんは戦いの後、父との決別として「幸」の字を「之」に改めています。

それを弟である信繁さんが譲り受けたのではという説もあります。

 

今回は「幸村」の名で紹介していきます。

 

 

真田幸村、簡単プロフィール

真田幸村生没1567年-1615年 ※1570年誕生説あり (関ヶ原の戦いは1600年に起こる)

 

15歳頃、真田家の主君であった武田家が滅亡。

幸村さんは織田信長(おだのぶながさんの家臣・滝川一益(たきがわかずますさんの人質となります。

人質とは、牢に入れられていたという分けではありません。家臣たちが裏切らないように、その身内を自身の城に住まわせ見張って生活させる事です。

 

本能寺(ほんのうじの変」が起こり、信長さんが死去。

 

 

19歳頃、真田家のお城である上田城で徳川軍と戦い勝利を飾る。「第一次上田合戦」です。

幸村さんは、越後(新潟県)の上杉家の人質となります。

その後、豊臣秀吉とよとみひでよしさんの人質にもなっています。

兄・信幸さんはというと、徳川家康さんの家臣・本多忠勝(ほんだただかつさんの娘と結婚しています。

 

24歳頃、秀吉さんの「小田原攻め」で北条家ほうじょうけが滅亡。幸村さんも参戦。

秀吉さんは天下統一を果たします。

 

28歳頃、秀吉さんの家臣・大谷吉継おおたによしつぐさんの娘と結婚します。


32歳
頃、秀吉さんが死去


34歳
頃、「関ケ原の戦い」開戦。真田家は上田城での戦闘。「第二次上田合戦」

この時、真田家の存続のために、家族を二分することを決めるのです。

 

“父・昌幸さん、幸村さんは西軍・石田三成方。”

“兄・信幸さんは東軍・徳川家康方。”

 

そして、徳川方の勝利となります。

敗れた昌幸さんと幸村さんは、信之さんの嘆願もあり死罪は免れましたが、高野山九度山(こうやさんくどやま(和歌山県)で幽閉生活となってしまったのです。なーんにもない山で静かに暮らさなければならなくなりました。10年以上も。


37歳
頃、江戸幕府が開かれる。


45歳
頃、九度山で父・昌幸さんが死去


48歳
頃、豊臣家と徳川家の関係が悪化し、「大坂・冬の陣」が起こる。

幸村さんも豊臣家から大坂城に呼ばれ、九度山を脱出しました。

二度も上田合戦で敗れ、真田家を恐れていた家康さんは、「大坂城に入ったのは、父の方か?子の方か?」と聞き、それが幸村さんと知ると安堵したといいます。幸村さんはまだこの時は無名だったのです。

 

49歳頃、「大坂・夏の陣」が起こる。幸村さん死去

 

 

 

戦国時代を生き抜く真田家の決断とは!?

武田信玄さんの家臣で信濃国(長野県)の小さな大名にすぎなかった真田家は、織田信長さんに武田家を滅亡されてからは、主君をその都度変えています。

幸村さんがその度に人質となっていました。

 

父・昌幸さんは戦国きっての知将で知られ、上田合戦でも2度に渡り徳川軍に勝利を飾っています。

徳川家康さんも昌幸さんを大変恐れていたのです。

 

関ヶ原の戦いでは、父子が東軍西軍に別れ真田家を残そうと考えました。

親子対決は当時としても大変珍しいことであったのです。

 

 

 

真田幸村のヒーロー伝説、大坂の陣!

48歳で一躍有名武将の仲間入り!

現代の人物像では、人気も高く若いイケメンで描写される真田幸村さんですが、実は遅咲きの戦国武将であり、「大坂の陣」の頃で既に48歳くらいだったのです。

しかも14年間、九度山で幽閉生活を強いられていたため、白髪交じりで歯も抜け落ちてしまっていたのだとか。

 

大坂・冬の陣!

豊臣家から大坂城に呼ばれた幸村さんは、父・昌幸さん譲りの知力で、「大坂・冬の陣」で徳川軍を撃退しました。

難攻不落であった大坂城に籠城(ろうじょうすることを提案する上司・大野治長(おおのはるながさんですが、この意見に逆らえなかった幸村さんは、大坂城唯一の弱点である場所に「真田丸」という出城を造り、敵をそこにおびき寄せ撃退していったのです。

 

徳川家康さんは和睦を求めてきましたが、その条件には「大坂城の外堀を埋める」というものでした。裏がありそうです。

幸村さんもそれを感じ反対しますが、治長さんは真田丸以外での戦況が不利であったため和睦を承諾してしまいます。

治長さんの狙いは、外堀をゆっくり埋め時間稼ぎをし、73歳の高齢であった家康さんが亡くなるのを待つ、そうすれば戦況は逆転するという考えでした。

しかし、外堀は徳川軍のみでわずか1ヶ月で埋められてしまったのです。治長さんの思惑は見事に覆されてしまいましたね。しかし、家康さんはこの2年後に亡くなっております。

 

この和睦の裏で幸村さんにも寝返りの交渉がありましたが、豊臣秀吉さんの子・秀頼(ひでよりさんへの恩義に報いるため、これを断っています。

かなりの報酬が用意されていたらしいのですが、恩の方を選んだ幸村さん素敵です。この行動が江戸時代の真田幸村人気に繋がっております。

 

 

大坂・夏の陣!

冬の陣より数か月後、徳川家康さんは和睦を無視し、外堀の無い裸同然の大坂城に攻め入ってきたのです。大坂・夏の陣」の開戦です。

 

この戦いで真田軍は、武器、鎧、全てを赤で統一しています。

これには理由があり、

赤は「膨張色」により、普通より大きく見えるため。

もう一つ、赤は「進出色」により、普通より近く見えるのだそうです。賢いですね。

 

外堀と一緒に真田丸も壊されてしまっていたため、今回の幸村さんの作戦は、徳川軍をギリギリまで引き寄せつけたところ、裏から奇襲をかけ、「大将・家康さんの首を取る」という戦法でした。

しかし、十分に引き寄せる前に味方の軍が戦いを始めてしまったためこの作戦は失敗に終わってしまいます。

 

そんな中、徳川軍に裏切り者が出たという噂が飛び交い、軍が動揺してるこの時をチャンスと幸村さんは強行突破で家康さんの眼前まで突き進みます。

そして、家康さんを自害寸前まで追い込んだのです

家臣たちに説得された家康さんは盛り返し、幸村さんは健闘虚しく討死してしまったのです。

 

幸村さんは戦いの前に、敵である伊達政宗(だてまさむねさんの家臣に、自分の子供たちを託していました。なぜ敵に自分の子を託したのでしょう。

しかし、幸村さんの判断は正しく、伊達家は徳川から「真田の子を匿っているのではないか?」と問いただされても最後まで隠し通します。

幸村さんの人を見る目と、伊達の男気!まさに伊達男!

伊達家に匿われた幸村さんの子たちは仙台真田氏を名乗り、現在も幸村さんの血筋として生き続けているのです。

 

 

 

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