【桜田門外の変】実行者も被害者も悲劇の死を遂げた悲しい事件

江戸時代
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「桜田門外の変」安政の大獄あんせいのたいごく井伊直弼いいなおすけさん」はセットで超有名ですよね。

 

その中でも今回は、「桜田門外の変」を紹介していきたいと思います。

加害者も被害者も、みんな悲しい結末を迎えてしまった事件でした。

 

それではまいりましょう。

ちょっとだけ「安政の大獄」と「井伊直弼さん」も紹介しますね。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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桜田門外の変はなぜ起こった?

将軍の補佐役、そして事実上日本のNo2である大老たいろう・井伊直弼さん。

直弼さんが大老の役職に就任した直後、2つの問題に直面してしまいます。

 

①将軍跡継ぎ問題!

13代将軍・徳川家定いえさださんは体がとても病弱であり跡継ぎを望めませんでした。

そこで2つの派閥が争うんですね。直弼さんは間に挟まれます。

 

ここで豆知識。
初代将軍・徳川家康とくがわいえやすさんは、自分の9男、10男、11男に「徳川御三家ごさんけを名乗らせます。

もし将軍の跡継ぎが途絶えてしまったら、この中から養子を迎えるわけです。これで家康さんの血筋は途絶えません。考えたものです。

実際、暴れん坊将軍こと8代将軍・徳川吉宗よしむねさんは、家康さんの10男・紀州徳川家からの養子なんです。この時から徳川家は紀州家の血筋となっています。

 

そして今回の「将軍跡継ぎ問題」は、紀州徳川家から12歳家茂いえもちくんと、家康さん11男・水戸徳川家から21歳慶喜よしのぶさんの派閥争いなんです。やっぱりみんな自分の家系から将軍を出したいのです。

結果、直弼さんは12歳家茂くんを選びます。

案の定、水戸藩(茨城県)から反感を買っちゃいましたよね。

 

 

 

➁日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく。

黒船に乗ってやってきたペリーさんと結んだ日米和親条約にちべいわしんじょうやくから4年後、今度はハリスさんがやってきて「日米修好通商条約を結ぶぞ!」と言ってきます。

ペリーさんの方は単純に、「日本の港使わせてー!」ってだけだったんですが、ハリスさんは日本に不利な条約を提示してきたのです。

 

 

 

アメリカの軍事力を見せつけられた江戸幕府は、言うことを聞かざる得ない状況でした。

そして幕府は、不平等な条約にサインをしてしまったのです。

しかも天皇の許しを得ないまま。

日本の若者たちは「弱腰だぞ幕府!」ってな感じで怒ります。
これが俗に言う攘夷じょういですね。外国を打ち払えってやつです。しかし事件は現場で起きてるもんなんですよ。

 

世間では直弼さんがサインしたみたいになっていますが、実は直弼さんは「天皇の許しがあるまでサインは待て!」とずっと言っていたんですね。

開国派の人たちが勝手にサインしてしまったんです。責任を全て直弼さんに押し付けた感じですね。まあNo2ですから。

 

「将軍跡継ぎ問題」で水戸藩がいきり立ち、「不平等条約」で日本の若者たちが幕府を倒せと盛り上がったというわけです。

 

これらの沈静化に対しての案が「安政の大獄」だったのです。

幕府に対し批判的な意見・行為をした者たちで、死刑や謹慎処分を受けたのは100人以上にも及びました。

しかし、この政策は恨みを買ってしまうようなもので、直弼さんは大老職に就いてから2年、江戸城桜田門で水戸脱藩浪士に襲撃されてしまったのです。

これが「桜田門外の変」です。

火に水をかけて鎮めようとしたものの、油をかけてしまってましたよ直弼さん!

 

 

桜田門外の変、当日!

桜田門季節外れの雪が降り積もり辺りは真っ白だった。

時は3月3日。この日は雛祭りで、江戸城での祝賀のため各藩の諸侯しょこうたちは城へと向う。

一目大名行列を見ようと見物人で周りはあふれかえっていた。

 

 

昨晩、品川の相模屋では酒宴が催されていた。

そこにいたのは、水戸藩士17名、薩摩藩士1名。明日の成功を誓い酒杯を交す。

皆、藩に非が及ばないように脱藩した者たちであった。

 

 

決行当日の午前8時。登城を告げる太鼓が江戸城から鳴り響き、各藩の諸侯たちは大名行列を組み城へと進む。

 

午前9時。彦根藩邸屋敷の門が開いた。桜田門まで400~500m。井伊直弼の行列は60人ほどだった。

直弼のもとには以前から「不審者あり」という情報は届いていた。
そしてさらに当日も警告はあった。しかし直弼は動揺をみせられないと、これを無視していたのだ。

 

そして、直弼を乗せた駕籠かごとその行列が桜田門外に差し掛かった時、一人の男が行列の前方に立ち塞がり突然に切りかかる。その直後、直弼の駕籠に向けて1発の銃弾が放たれた。

その音を合図に全方向からの奇襲攻撃が開始された。

 

彦根藩士たちは奇襲攻撃に慌てふためき、雪が降っていたため付けていた刀の柄袋つかぶくろのせいで抜刀することが出来なかった。鞘のまま抵抗したり、素手で戦う者もいたのだ。

 

やがて護る者がいなくなった直弼の駕籠へと次々と刀は突き立てられた。

直弼は駕籠から引きずり出され、首を刎ねられた。

僅か十数分の出来事だった。

 

 

水戸脱藩浪士たちのその後。

水戸藩と薩摩藩(現・鹿児島県)の間で、大老を暗殺後、京都で挙兵。天皇の許しを得て幕府を倒す計画があった。

しかし、薩摩藩はこの計画を白紙にしてしまったのです。そのことは水戸藩には知らされていませんでした。

大老暗殺を実行した水戸浪士たちは「井伊大老を討ち倒したら皆で京都へ上ろう!」と決めていたのです。

 

水戸浪士たちの被害は、1人は闘死、4人は負傷していたため自ら切腹、8人は投降ののち斬首

生き残った者たちは、京へと向かいましたが辿り着けず捕まる者、薩摩藩との計画が破綻していたため、路頭に迷う者ばかりだったのです。

 

 

被害者であった彦根藩(現・滋賀県)の被害は、8人が死亡。10数名が負傷

しかもなんと事件から2年後、井伊直弼さんの護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下されました。

それは、重傷者は幽閉、軽傷者にはみな切腹が命じられたのでした。

 

この事件から各地の若者たちが発起し、「倒幕とうばく」へと向かっていくのです。

 

 

まとめ

悪徳政治家のようなイメージのある井伊直弼さん。

真実は、周りの人たちがアメリカの脅威に脅され開国を決行、その尻拭いのための「安政の大獄」でさらに悪者イメージが増大してしまった可哀そうなお方でした。

直弼さんは「開国したくない派」のお方だったんです。

 

そして、「桜田門外の変」の実行者も被害者もみな悲劇の死を遂げていました。

悲しい事件ではありますが、これをきっかけに7年後の明治の世へと繋がっていくわけですから、これからの日本にとって意味のある事だったと思いたいです。

 

 

 

 

 

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