当時の人たちは、命の危険から守るために頻繁に名前を変えていました。
写真もまだ普及していない時代でしたから、名前は知っているけど、顔は分からないといった感じだったんです。
有名な坂本龍馬さんも命を狙われているお方でしたので、もちろん変名を使っていました。
例えば、龍馬さんが暗殺されてしまった「近江屋事件」。
刺客はその場にいた2人のどちらが坂本龍馬なのか分からなかったため、龍馬さんが使っていた変名を逆に利用し、「才谷梅太郎さん、お久しぶりです。」と油断させ暗殺したのです。
当時は名前でしかその人を特定出来なかったんです。
ちなみに龍馬は「通称」で、本名は「坂本直柔」って言うんですよ。
今回紹介する西郷隆盛さんも頻繁に名前を変えております。
しかも、この隆盛という名は明治に入ってから使われるようになったものなのだとか。
それではまいりましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
西郷隆盛、名前の遍歴!
幼名は小吉
1828年1月、薩摩国鹿児島で西郷九郎隆盛(のちに吉兵衛隆盛)さんの長男として生まれます。この隆盛さんはお父さんです。同じ名前なんです。
幼名は「小吉」。そしてお父さんの幼名も小吉でした。
幼名とは、元服するまで、いわゆる大人になるまでに呼ばれていた名前ですね。
元服は一般的に12歳~16歳くらいに行います。
諱(本名)は隆永
14歳頃、元服して「西郷吉之助隆永」と名乗ります。
「隆永」が諱。いわゆる本名ですね。
「吉之助」が通称。
当時は、親や主君以外の人が本名で呼ぶことを無礼であるとされていたので、互いを通称で呼び合っていました。
家督を継ぎ、善兵衛を経て吉兵衛へ
24歳頃、父母の勧めで最初の結婚をします。
しかし、その同じ年に相次いで、祖父、父、母が亡くなってしまったのです。
この頃、通称を「善兵衛」に改めています。
27歳頃、西郷家の家督を継ぎ、父と同じ通称である「吉兵衛」へと改めます。8代目吉兵衛となりました。襲名したって感じですかね。
幕府から逃れるために変名!
井伊直弼さんが大老に就任すると、「不平等条約調印」や「将軍継嗣問題」で世の反感を買います。
それに対し直弼さんは「安政の大獄」で反撃しました。
西郷吉兵衛さんも幕府批判をしていましたので、追われる身だったんです。
少し前、父のように慕っていた前薩摩藩主・島津斉彬さんが亡くなり、西郷さんは前途を悲観している状態でした。
そんな折、西郷さんはなんと入水自殺を図ってしまうのです。
無事助けられはしたのですが、1ヵ月ほど生死の境をさまよいます。
この事件で、薩摩藩は西郷さんを死んだ者として扱い、幕府の目から隠しました。
そしてそのまま奄美大島へと身を潜ませ、名も「菊池源吾」、さらに「西郷三助」と変えさせたのです。
この名の意味は、西郷家の祖先は菊池氏であったということから、「吾の源(意味)は菊池」から名付けられたとされています。
大島で三年間の生活?
奄美大島の生活が3年ほど過ぎた頃、薩摩藩は西郷さんの助けが必要と本土に呼び戻すことにします。
しかし、まだまだ幕府に生きていることが発覚されないようにするため名前を「大島三右衛門」に変えます。
これはさらに単純で、「大島に3年住んでいたから」という洒落なんです。
島津久光に反抗して変名?
薩摩藩は、現藩主の父であった島津久光さんが実権を握っており、朝廷を動かし幕政改革を勧めるために兵を率いて京へ上洛しようとしていました。
そのために大島三右衛門さんを呼び戻したのですが、前藩主・斉彬さんを慕っていた大島さんは久光さんとそりが全く合わなかったのです。
「久光殿は、斉彬殿に比べ人望もなく、田舎者だ!京へ行っても意味がない!」
こんな事を言われたらどんな人でも怒りますよね。
さらに大島さんは、下関待機という命令を聞かず、勝手に京へ向かってしまいます。
久光さんは流石に我慢ならず、大島さんを徳之島、そして沖永良部島へと流罪としたのです。
その時に名前も「大島吉之助」に解明させられました。
熱い人柄のお方だったのか、それとも前途を悲観した気持ちがまだ治っていなかったのか。
かなり世渡り上手ではないですね。
幕末の活躍期は、西郷吉之助!
沖永良部島に流罪になってから2年後の38歳頃、大島さんは薩摩藩の危機に再度呼び戻されます。
薩摩藩は外国と秘密裏に貿易をしていました。
このことなどにより京や大阪などで薩摩藩の悪評は飛び交っていたのです。
大島さんは姓を西郷に戻し、「西郷吉之助」と名乗るようになります。
元服時に戻ったってことですね。
そして、西郷さんは幕末の動乱期をこの名前で活躍して行くのです。
間違えられて、西郷隆盛に?
「大政奉還」で江戸幕府が無くなり、「戊辰戦争」により幕府軍は敗北、世は新政府による明治時代となっていきました。
「廃藩置県」で、今では当たり前の「県」というものが誕生し、西洋文化を取り入れていく日本はがらりとその姿を変えていくのです。
「文明開化」ってやつですね。「西洋のものならなんでもいい!」みたいな考え方だったみたいですよ。
そして、名前にも変化が見られます。
日本国民に姓と名を持たせるという動きとなり、「通称」も廃止し、名を1つだけにすると決まりました。
国民を管理し易くするといったことだったようです。
西郷さんも「吉之助」を止め、本名である「隆永」にするつもりでした。
王政復古の功で位を承る際、西郷さん本人は出席できなかったため、親友が代わりに届けを出します。
しかし、その親友は西郷さんの本名をうる覚えだったんですね。
「確か隆盛だったよ!」というように。
「隆盛」は西郷さんの父の名でしたね。当時は本名で呼び合いませんから仕方ないんですが。
西郷さんは後日それを知ると、「よかよか。じゃあそれでw」と隆盛を本名としたんです。
西郷さんの人柄が分かるエピソードです。
みなさんが知る「西郷隆盛」は、明治に入ってから呼ばれた名前で、さらには父の名でもあったんですね。
まとめ
今回は、名前について紹介してみました。
「西郷隆盛」と当たり前のように呼んでいますが、昔の人は通称で呼び合い、本名は知らないみたいな感じだったんですね。
仇名で呼び合ってる感じでしょうか。
江戸時代以前は「官職名」で呼び合っていたのでさらにめんどくさい。
「~之助」「~衛門」などは平安時代の官職名だったらしいですよ。
それを江戸時代の人は通称で使っていたんですね。
となるとまるで使われていない「本名」とはなんなんでしょうね?
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