2018年大河ドラマは西郷隆盛さんを主役とした「西郷どん」です。
西郷隆盛さんは、上野公園の犬を連れている銅像でも有名で、歴史に詳しくない方でも知らない人はいないでしょう。
明治維新の立役者で紹介され、幕末には欠かせない人物。
坂本龍馬さんが仲介した「薩長同盟」では、薩摩側の代表として締結。
「江戸城無血開城」の際は、勝海舟さんとの話し合いの末、江戸を戦場にすることを防ぎました。
そして、その時の歴史上で功績が大きかった3人を挙げる「維新三傑」の1人として数えられるほどに大活躍。
最後は、自ら参加してしていた明治政府と戦うこととなった「西南戦争」で亡くなります。
そんな西郷隆盛さんは実は、何度も流罪になっていたり、自殺を何回も試みたりとかなり破天荒な行動をしていたのです。
今回は、西郷隆盛さんのそんな部分を紹介していきます。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
西郷隆盛の結婚。
1度目の結婚。
24歳頃、隆盛さんは父母の勧めで、薩摩藩士・伊集院兼善さんの娘・須賀さんと結婚します。隆盛さんとは4歳下になりますね。
しかし、同じ年に隆盛さんの祖父、父、そして母と相次いで亡くなり家系は一気に貧しくなります。
さらに2年後、隆盛さんは薩摩藩主・島津斉彬さんに従い江戸へと向かうこととなり、伊集院家は須賀さんの苦労を見かねて2人を離縁させてしまったのです。
隆盛さんはこのことをずっと後悔していたといいます。
2度目の結婚。
30歳頃、大老に井伊直弼さんが就任。
日本各地で、直弼さんによる尊王攘夷派の弾圧で知られる「安政の大獄」が行われていました。
隆盛さんも挙兵を試みますが失敗、鹿児島へと帰ることになります。
幕府の追及を恐れた薩摩藩は、隆盛さんを「西郷三助」と改名させ、日向国(現・宮崎県)へと追放を決めます。
その船中で隆盛さんは、なんと前途を悲観して入水自殺を図ったのです。
しかし、無事救出。
薩摩藩は、隆盛さんを死んだものと扱い、幕府に墓まで見せ、この難を逃れたのです。
隆盛さんは、職を免じられ、名を「菊池源吾」と変え、奄美大島へと潜居させられます。
そこで、奄美大島の名家・龍家の愛加那さんと2度目の結婚をします。「西郷どん」では二階堂ふみさんが演じますね。
約3年間の島生活で、1男が誕生、1女を身籠っていました。
後に、薩摩藩は隆盛さんを必要とし帰郷させます。
生きていることを幕府に発覚させないために名を「大島三右衛門」と改名しています。由縁は、大島に3年住んでいたからという洒落なんです。そのままw
3度目の結婚。
37歳頃、隆盛さんは薩摩藩士・岩山八郎太さんの娘・糸子さんと3度目の結婚をします。
糸子さんは21歳で、2度目の結婚でした。「西郷どん」では黒木華さんが演じられます。
2人の間には3人の男子が誕生し、後に2人目の妻であった愛加那さんとの2人の子も養子として引き取り育て上げます。
ちなみに、競馬騎手の武豊さん、幸四郎さんは隆盛さんの子の遠縁に当たる関係なんだそうですよ。
流罪になった理由?
奄美大島へ流罪?
隆盛さんは、薩摩藩主・島津斉彬さんと次期将軍を徳川慶喜さん(のちの15代将軍)にしようと尽力しますが、大老・井伊直弼さんは徳川家茂さんを将軍と決定してしまいます。
2人は、挙兵の準備を始めるのでしたが斉彬さんは急逝してしまいます。
幕府から追われる身となってしまった隆盛さんを薩摩藩は日向の国へ追放、前途を悲観した隆盛さんは入水自殺を図ります。
無事に助けられたものの、回復に1ヵ月ほどかかり、薩摩藩は隆盛さんを死んだものとし幕府からの追及を逃れたのです。
奄美大島へ流罪というよりも、匿ったという意味の方が正しいでしょう。
当初、隆盛さんは罪人としての扱いをされており、孤独に大変苦しんでいたといいます。
しかし、愛加那さんとの結婚、そして、大久保利通さんらとの情報収集に意欲をみせ、島の生活にも馴染んでいったのです。
上司に反抗?2度目の島流し!
現藩主の父に当たる島津久光さんは、京へと向かう計画を立てますが、その人材不足解消として隆盛さんを呼び戻すことを決めます。
前薩摩藩主・島津斉彬さんをとても慕っていた隆盛さん。
なんと、「久光殿は無官で、斉彬殿ほどの人望を持っていない。上京しても意味がない!」と主張したのです。
当然の如く、久光さんの反感を買い、隆盛さんも京へは上らないと断りますが、大久保利通さんの説得により、下関で一時待機の命を受けます。
しかし、京にいた薩摩脱藩浪士たちが久光さん上洛を知り、ついに倒幕に乗り出したと勘違いをし、京都焼き討ちの計画を立てていたのです。
そのことを知った隆盛さんは、下関待機命令を破り、計画を阻止すべく京へと向かうのです。
久光さんは隆盛さんが待機命令を破ったことに激怒、さらには京都焼き討ち計画は隆盛さんが煽ったことと勘違いをし、隆盛さんに向けての捕縛命令を出し、鹿児島へと護送させたのでした。
そのまま徳之島へと流罪になったのです。
隆盛さんが、徳之島に到着した丁度同じ日に、2人目の妻である奄美大島の愛加那さんが長女を誕生させます。
その2ヶ月後、愛加那さんは2人の子を連れ久しぶりの親子対面を果たしました。
しかし、隆盛さんはさらに沖永良部島への流罪が決定してしまいます。
その島の牢はとても貧弱で雨風にさらされるような場所で、隆盛さんは痩せ細り、健康を害していったのです。あのふくよかなイメージの隆盛さんの痩せ細った姿は想像がつきませんよね。
その後、同郷の後輩たちの尽力により、待遇は改善、健康も取り戻し、最後には島の人々に勉学を教えたり、酒を酌み交わすまでになりました。
そして、沖永良部島に来て2年後、京での薩摩藩の世評の悪化や人材不足などで再度鹿児島本土へと呼び戻されたのです。
2度も自殺決行?
1度目。
薩摩藩の下級武士であった隆盛さんは、薩摩藩主・島津斉彬さんの目にとまり行動を共にするようになります。そして父のように慕っていったのです。
しかし、隆盛さん30歳頃、斉彬さんは急逝してしまいます。
死因は当時日本で流行していた「コレラ」という説がありますが、症状が該当していないことや、跡継ぎが既に亡くなっていたことを合わせて、先代藩主だった父や島津久光さんの陰謀説が有力なのです。
斉彬さんの死を知った隆盛さん大変悲しみ、墓前で切腹し後を追おうとするほどでした。
しかし、尊王攘夷派の僧侶であった月照さんに説得されます。
「ここで死んでも斉彬殿は喜ばれない。志を継いで日本のために働くのだ!」
2度目。
月照さんに諭されて、共に京へと上り挙兵を計画しますが、井伊直弼さんの安政の大獄が過激化しており、鹿児島へ引き返すことを余儀なくされました。
しかし、薩摩藩は月照さんを引き取ることを拒否、日向国へ追放することを決定します。
このことの本当の意味は、日向国への道中での斬り捨てを意味していたのです。
斉彬さんの墓前で生き抜くこと決意した2人でしたが、前途に絶望し入水自殺を決行してしまったのです。
月照さんは46歳で亡くなります。
隆盛さんは無事助けられますが、そのまま奄美大島へと流罪となりました。
薩摩藩は隆盛さんを死んだことにし、幕府に2人の墓を見せ幕府からの追及を逃れたのでした。
まとめ
今回は、西郷隆盛さんがまだ活躍を見せる前、父として尊敬していた斉彬さんや月照さんの死で、まだまだ心が弱かった頃の出来事を紹介しました。
何度も自殺を考えるようなナイーブな性格の持ち主だったとは想像もつきませんでしたね。
有名な隆盛さんの自画像も子孫を参考にしたもので、本人ではないのですが、やはりあのイメージが強いですからね。
かくゆう、江戸幕府を開いた徳川家康さんも何度も自殺を図ろうとした人なんですよ。
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