今回は、織田信長さんの妹にして、浅井三姉妹のお母さんでもあるお市さんについて紹介していきます。
浅井三姉妹の長女・茶々さんは豊臣秀吉さんの側室で、豊臣家の跡継ぎである豊臣秀頼さんを生みます。
3女・江さんは徳川2代将軍・徳川秀忠さんの継室で、3代将軍・徳川家光さんや天皇家の妻となる和子さんを生みます。ちなみに「継室」とは、後妻のことですね。
そんな名立たる有名人たちの血筋に繋がる浅井三姉妹のお母さんとはどのようなお方だったのでしょう。
ということは、天皇家には織田信長さんの血が流れているってことですね。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
織田信長と13歳差の妹
1547年、織田信秀さんの5女として誕生。
信秀さんには12人の息子と10人以上の娘がいました。
よく「サッカー出来るほどの子供が欲しーい!」とか言いますが、もう身内で試合まで出来ちゃいますね。
織田信長さんとは13歳差の兄妹です。一説では、信秀さんの弟の娘という説もありますが、どちらにせよ血は繋がっております。
政略結婚で浅井家へ!
織田信長さんは、美濃国の斎藤氏との関係が悪化していたため、浅井長政さんとの同盟を組むことになります。
その時の政略結婚として、お市さんは21歳頃に浅井長政さんの継室となったのです。
信長さんは、政略結婚にはほとんどを養女を用いていました。
実の妹や娘を他国に嫁がせたことは2人しかいなかったのです。
このことを考えると、この浅井家との同盟はかなり重要視していたと思われます。
浅井側が結婚資金を用意するのが普通でしたが、信長さんが全額負担したそうです。
信長さんの一字をもらい、「長政」と改名したのもこの時期だとか。
ちなみに上の画は長政さんなんですが、これでもまだ20代なんです。
政略結婚にも関わらず、2人の夫婦関係はとても良かったらしく、長政さんは性格の良いお方だったのでしょうね。
織田信長と浅井長政の亀裂!
お市さんは、長政さんとの間に3人の女子を授かります。
茶々、初、江です。俗に言う「浅井三姉妹」ですね。
しかし子供たちがまだ幼い頃、長政さんと信長さんの同盟は破棄されてしまったのです。
長政さんの父の盟友でもあった朝倉義景さんを信長さんは攻め始めるのです。
同盟の際に、「朝倉氏とは敵対しないように」という制約がされていましたが、信長さんはこれを破ってしまったんですね。
そして、お市さん27歳の頃、信長さんに攻められた長政さんは自身の城で自害してしまったのです。29歳の若さでした。
お市さんと三姉妹は城から救出され、信長さんが本能寺で亡くなるまでの9年間を織田家で過ごすことになります。
織田家重臣・柴田勝家と再婚
1582年、お市さん36歳の時、兄・織田信長さんが本能寺で明智光秀さんの謀反に遭い自害してしまいます。
その直後、織田家臣たちが集まり、跡継ぎや領地分配を決める「清洲会議」が開かれました。
その席で、お市さんは織田家の重臣・柴田勝家さんとの再婚が決まったのです。歳の差がなんと25歳も離れていました。
自身で決めたことでないんですが、もしかしてお市さん、おじさん好き?長政さんは老け顔なだけですが。
お市さんは「戦国一の美女」と言われており、「戦国一の女好き」だった豊臣秀吉さんにも気に入られていました。
明智光秀さんを秀吉さんが討ったということで、織田家臣内での秀吉さんの立場が勝家さんと逆転していました。
勝家さんの不満を抑えるために秀吉さんはお市さんとの結婚を申し合わせたといいます。
賤ヶ岳の戦いでの自害!
本能寺の変、そして清洲会議から翌年、勝家さんと秀吉さんの関係は悪化していき、ついに賤ヶ岳で両者は相見まえます。
勝家さんは敗北を確信すると、自身の城に戻り自害してしまいます。
お市さんは夫に付き添い共に自害してしまったのです。
享年37歳でしたが、22、23歳に見えるほどの美しいお方だったそうです。
3人の子供たち!
お市さんは亡くなる直前、秀吉さんに手紙を送り、3人の娘たちの身柄の保証を求めていました。
娘たちには「浅井と徳川の血を絶やさぬように」と言い聞かされていたそう。
長女・茶々
お市さんが亡くなった5年後、天下人・豊臣秀吉さんの側室となる。
秀吉さんはお市さんを好いていたので、茶々さんを側室にしたとされています。
鶴松、豊臣秀頼と2人の豊臣家の跡継ぎを生みました。
しかし、1615年の豊臣vs徳川「大阪の陣」で自害してしまったのです。
次女・初
姉の茶々さんと時を同じくして、従兄妹同士でもあった京極高次さんの正室となります。
高次さんの母は、浅井長政さんの姉・京極マリアさんです。この時代で「マリア」とは凄いですね。
初さんは、豊臣と徳川の対立の間を取り持つことに尽力しましたが、豊臣家は滅亡し、姉に先立たれてしまうのです。
3女・江
江さんは3度の結婚をし、最後の夫が徳川2代将軍・徳川秀忠さんです。
秀忠さんとの間には、3代将軍・家光さんや、茶々さんの子・豊臣秀頼さんの妻・千姫、そして天皇家へと入った和子さんを生みました。
まとめ
今回は、政略結婚で戦国の荒波に飲まれていくお市さんについて紹介しました。
しかし、浅井長政さんや柴田勝家さんとの結婚はとても幸せだったように思われます。
3人の娘たちの今後の身が心残りではあったと思いますが、皆名のある武将たちに嫁いで行きましたし。
勝家さんとも1年ほどだったのですが、最後の時、2人は辞世の句を詠みます。
お市さんは「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」
これに対し勝家さんは「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
そうでなくても夏の夜は短いのに、死出の鳥ほととぎすが夢路に誘ってくるようです。
夏の夜のように儚い人生であるが、後の世までも名を伝えておくれ。
といった内容でしょうか…。
お市さんの寂しさを勝家さんが優しく包み込んでいるような気がしますね。
コメント