【桂小五郎】木戸孝允への改名の変遷と「逃げの小五郎」と呼ばれた理由とは?

幕末で、坂本龍馬(さかもとりょうまさんや西郷隆盛(さいごうたかもりさんらと共に人気と知名度があった桂小五郎(かつらこごろうさん。

外国を打ち払えといった攘夷(じょうい運動」の過激な志士が数多くいた長州藩(現・山口県)のリーダーでもあったお方です。

そんな過激な藩のリーダーということもあり、どんなイケイケなお方かと思いきや、「逃げの小五郎」などという仇名がついてしまうような方だったんです。

数十種類の変名を使い江戸幕府から逃げまくります。

乞食(こじき、商人、女性にまで変装して…。

その後、逃げ延び続けた小五郎さんは明治政府にはなくてはならない人物へとなるのです。

今回は、数多くある桂小五郎さんの変名の変遷を紹介していきたいと思います。

なぜに「逃げの小五郎」なんて仇名が付いてしまったのかという理由もご一緒に。

※歴史上のことなので諸説あります。

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「三本の矢」毛利元就の血筋!?

1833年長門国(ながとのくに萩(現・山口県)で藩医・和田家の長男として誕生しました。

この和田家、「三本の矢」でも有名な戦国武将・毛利元就(もうりもとなりさんの七男の血を引いている家系なんです。それはもちろん元就さんの血も受け継いでおります。

幼少の頃、病弱であった小五郎くんは長生きしないであろうと思われていたため、長男であったにも関わらず7歳で桂家の養子へと出されます。この時に武士の身分となりました。

武士とは、「大事のためには、自らの命も惜しまない!」という志を持っていましたが、小五郎くんは医師の家に生まれ死を身近に感じる環境であったためか、「命が無ければ大事を成すことは出来ない!」という真逆の考えが芽生えたのでしょう。

「逃げの小五郎」の原点はここにありそうですね。

幕府から逃れるために名前を変えまくる!

長州藩が朝敵となった理由!

「八月十八日の政変」「池田屋事件」「禁門の変」の事件により、長州藩は「朝廷の敵」「天子様に反逆する賊」いわゆる「朝敵」とみなされるようになってしまいます。

これらの事件を簡単に説明すると、長州藩は孝明(こうめい天皇の極端な外国嫌いに乗じる形で外国を打ち払えという尊王攘夷(そんのうじょうい運動」を過激に行っていました。

下関海峡を通過していただけの外国船へ向けて砲撃してしまうほどに。

しかし、そんな長州藩に続く藩は無く、次第に孤立していきます。

孝明天皇さえも長州藩の横暴なやり方を嫌い、ついには「八月十八の政変」にて長州藩は京を追われる形となってしまったのです。

翌年、長州藩士らは御所(ごしょに火を放ち、混乱の中で幕府幹部の暗殺、天皇を長州へ連れ去る」といったクーデターを計画します。

しかし、幕府により京都警備を任されていた新選組が事前にこれを察知、池田屋に潜伏していた攘夷志士らを襲撃しこれを未遂に終わらせました。

池田屋事件の恨みで後押しされる形で、長州藩内では積極派が慎重派を抑え込み、「藩の冤罪を帝に訴える」ことを名目に長州藩は京へ向け挙兵を決行します。

この武力衝突事件である「禁門の変」により京の町は戦火に焼かれ、そして、長州藩は天皇が住む御所に発砲したとして「朝敵」の汚名を着せられることになってしまったのです。

指名手配となった桂小五郎!

京の町では、敗戦した長州藩士の残党狩りが盛んになっていました。

小五郎さんは名を変え姿を変え潜伏生活へと身を投じます。

ある時は三条大橋の下で乞食の姿となり誰も疑わないほどに溶け込みます。

そしてある時は女性に扮し京の町を逃げ回っていました。

小五郎さんは当時ではかなりの大柄で175cmほどの身の丈をしていましたので、逆に女性の姿では目立っていたのでは…。

一度捕まってしまった事もありましたが、腹痛を訴えトイレに行きたいと嘆願、そして役人の目を盗みそのまま逃げ出す事に成功しています。

新選組が襲撃してきた「池田屋事件」の際にも、2階の屋根伝いに逃げ切ったなどという話も残されています。

その後、京の取締が厳しくなり、小五郎さんは潜伏場所を但馬国(たじまのくに(現・兵庫県北部)に移動します。

今回の移動中でも船の船頭に扮し無事に関所を通過、出石(いずしの地で8ヵ月も過ごすこととなります。

ここでは潜伏というよりも地元の者たち馴染むといった生活をしており、子供たちと囲碁や花札などで大胆に遊んでいました。

さらには荒物屋を営む商人となり違和感なく溶け込んでいったのです。

小五郎さん自身も一生このままの人生でいいかもと思ったほどだとか。

潜伏生活も7ヵ月程過ぎた頃、京での逃亡生活時に献身的に支えてくれていた幾松(いくまつさんが出石にやってきました。のちに妻になるお方ですね。

小五郎さんの身を案じていた幾松さん、「小五郎さんがいくら話しかけても横を向いていた」といいます。

幾松さんは、長州藩からの帰国嘆願の手紙も携えていました。

そして、小五郎さんは長い潜伏生活に終止符を打ち長州へと帰国することになります。

ちなみに、商人として生活していた頃の名は広戸孝助(ひろとこうすけと変えており、その他にも新堀松輔(にいぼりまつすけなどなど10種類以上も使い分けていたのです。

剣豪!桂小五郎!

「逃げの小五郎」なんて仇名が付く程ですから、さぞかし剣術は苦手なのかなと思いきや、江戸の三大道場の1つで免許皆伝を得るなど剣豪としても有名なお方でした。

指名手配中の小五郎さんを追っていた新選組の局長・近藤勇(こんどういさみさんが、小五郎さんの剣の腕を恐れていたと話しています。

やはり臆病で逃げていた訳ではなく、命の大事さを理解していたお方だった訳ですね。

同じ時代のヒーロー・坂本龍馬さんも人を斬ったことはなく、ピストルで威嚇して逃げていたようですよ。

「桂小五郎」から「木戸孝允(きどたかよし」への名前の変遷!

「桂」から「木戸」へ!

小五郎さんは、長州藩の統率者として迎えられることとなり、薩摩藩との軍事同盟である「薩長同盟」の締結を成し遂げるなど軍制改革、藩政改革に躍進します。

この頃に、主君である長州藩主・毛利敬親(もうりたかちかさんより「木戸」の姓を賜り、「木戸貫治」と名乗るようになります。

幕府の指名手配者「桂小五郎」は行方不明のままとし、あくまで別人であるとした改名であったようです。

その後、「木戸準一郎」へとも改名しています。本当に名前を変えるのが好きなお方ですね。

明治に入り、「木戸孝允」へ!

昔の人たちは本名のことを(いみなといい、互いに呼び合うことを避けていました。日常では、通称(つうしょうを使っていたのです。

木戸さんで言えば、「小五郎」「貫治」「準一郎」が通称です。

7歳の頃に桂家へ養子に出され、その頃より諱を「孝允」としていました。

明治時代に入り、全国の藩が所有している人民を朝廷に返すという政治改革で、全ての人が「姓」と「名」を戸籍登録することとなり、諱と通称の両立も禁止となりました

木戸さんは、諱であった「孝允」を登録し、たくさんの名前を使ってきましたが最後は「木戸孝允」に落ち着いたということになりましたね。

こんなに色々変えて、自分の名前を忘れたりしなかったのでしょうかね?

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