【夏目漱石】小説家になった理由と親友・正岡子規との秘話!

明治時代
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20年間、千円札の顔であった夏目漱石(なつめそうせきさん。

育ちも良く、とても優秀であった漱石さんはエリート街道まっしぐら。ロンドン留学も経験します。この留学が千円札の肖像に選ばれた理由です。

しかし、再三の神経衰弱と病気に悩まされ、小説家へと転向することになるのです。

 

※歴史上の事なので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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夏目漱石の千円札からサイズが小さくなった!

1984年11月1日より発行が開始されました。

この頃から20年周期で新紙幣が発行されるようになります。

 

五千円札と一万円札も同日で新紙幣へ変更となりましたが、漱石さんしかり、新渡戸稲造(にとべいなぞうさん、福沢諭吉(ふくざわゆきちさん皆が海外に渡った経験があり、外国人に広く知れ渡っている著作家や学者などの文化人が採用される傾向となりました。

 

前千円紙幣の伊藤博文(いとうひろぶみさんのお札より幅が14mmもコンパクトになっています。

以前の紙幣は、現在の一万円札に近い大きさでした。(伊藤紙幣164㎜、夏目紙幣150㎜、一万円紙幣160㎜)

実際比べてみると、かなり小さくなっていますよ。

 

 

夏目漱石とはどんなお方?

幕末と明治の混乱期に誕生した漱石さん!

1867年、江戸の牛込馬場下(現・新宿区)の一帯を治めていた名主である夏目家の末子として誕生します。本名は「金之助さん」

夏目家はかなりの権力を持っており、生活も豊かではありましたが、母が子だくさんの上に高齢出産ということもあり漱石さんは望まれない子であったとされています。

幸せはお金や権力ではないということですね。

 

1867年は幕末真っただ中で、翌年には江戸幕府が滅亡し明治時代に変わっていくという時代。

このような混乱期であったためか、生後すぐに里子に出されたり、1歳で養子に出されたりと赤子の頃より波乱でありました。

その後、養父の女性問題により漱石くんは9歳で生家に戻ります。夏目家への復籍は21歳

 

小学校、中学校と幾度かの転校や中退を繰り返していますが、素行が悪かったという訳けではなく、漢学や文学を志すためであったり、受験に必須であった英語の授業が行われていなかったという理由でした。

以後、学業に励みほとんどの教科で首席、特に英語はずば抜けて優れていました。

兄は出来の良かった漱石さんに対し、夏目家再興の願いを果たそうとしていた程でした。

 

俳人・正岡子規とは親友の関係!

正岡子規(まさおかしきさんとは、俳句、短歌、小説などの日本の近代文学で絶大な影響を及ぼした偉人の1人であり、難しいようにみえてスーッと入ってくるこの名前が知名度をさらに上げていますよね。

 

1867年、伊予国松山藩(現・愛媛県)で誕生します。

子供の頃は身体が弱く内向的でいじめられっ子であったそうです。

少年時代から漢詩や小説を好み、文学者の片鱗を見せており、さらには政治にも関心を持っていました。

 

16歳頃、東京に上京。

翌年、東京予備門(現・東京大学教養学部)に入学すると、夏目漱石さんと出会い友情を深めていくことになります。

 

21歳の8月、そして22歳の5月に大量の喀血をし、医師から「肺結核」と診断されてしまいます。

当時の結核は不治の病とされていたため、子規さんは死を意識した人生を歩むようになります。

それは「子規」という名前にも表れており、「子規」とは「ホトトギス」の異名で、血を吐くまで鳴き続けるというホトトギスと喀血した自分とを重ねていたのです。

ちなみに親友・漱石さんの「漱石」という名前は、たくさんある子規さんのペンネームから譲り受けたものでした。

「頑固者、変わり者」といった意味で、漱石さんの性格に合っていたのだとか。

 

子規さんは、学年末試験に落第したために大学を中退し、25歳で日本新聞社に入社。

この時、「落第してしまったために退学する」といった手紙を漱石さんに送ると、漱石さんは「鳴くならば 満月になけ ホトトギス」といった句を送り返しています。

 

2年後「日清戦争」が勃発すると記者として中国に渡ったものの、上陸の2日後に終戦、帰国の船中で喀血し重体に陥りそのまま入院となってしまいました。

 

療養したのち、俳句の研究や短歌の革新につとめ、これらの世界に大きく貢献していきます。

しかしその一方で、病状はますます悪化、結核菌が脊髄を冒し歩くことが難しくなり寝たきりとなってしまうのです。

それでも俳句、短歌、随筆を書き続け、さらに後進の指導も続けました。

当時、イギリス留学をしていた漱石さんに宛てた手紙には、

「僕はもうダメになってしまった…。君に再会することは出来ぬと思う…」

などなど、親友さゆえの愚痴のような手紙を送っています。

そして、34歳の若さで亡くなりました。

 

 

病気に苦しんだ半生!そして、作家への道!

イギリス留学と強制帰国!

23歳頃、帝国大学英文科に入学。

同時期、2人の兄と死別、さらに3人目の兄の妻の死も重なり、悲観的、神経の衰弱に陥り始めたといいます。三兄の妻に恋心を抱いており、失ったことが心に深い傷を受けてしまったのです。

 

25歳頃より、東京専門学校(のちの早稲田大学)で講師もしています。

正岡子規さんとは早稲田の辺りを散歩したり、一緒に関西方面へ旅をしたり、松山の子規さんの実家にも訪れています。

 

26歳頃、帝国大学を卒業し英語教師となるも、肺結核の徴候、極度の神経の衰弱により東京から逃れるように松山の中学校で英語教師をしながら、子規さんの故郷で静養をとりました。

 

29歳頃、熊本の高等学校へ英語教師として赴任、そこで、貴族院書記官長の長女と結婚しましたが、お嬢様育ちであった妻は慣れない環境でヒステリー症となり、順風満帆な夫婦生活ではなかったといいます。妻が川に飛び込もうとしたことも。

 

33歳頃、英語教育法研究のためにイギリス留学を文部省より命じられます。

しかし、そのロンドンでの生活は最悪のものであり、文部省への報告書には、

「物価が高く生活が困難である。大学の講義は授業料を払ってまで聴く価値なし。」

とまで言っています。

さらに、英語での会話が上手くいかず徐々に孤独となり、下宿に1人籠って研究に没頭し始めると、下宿屋の主人が心配するほどの神経衰弱に陥ってしまったのです。

文部省では「夏目発狂」という噂まで流れてしまい、急遽の帰国命令が出されました。

 

のちに漱石さんは、

「もっとも不愉快な2年間なり」と書き残しています。

 

『吾輩は猫である』で作家の道へ!

イギリス留学から帰国すると、第一高等学校と東京帝国大学の講師になります。

しかし、帝国大学で漱石さんの前任の留任運動が学生の間で起こり、さらに漱石さんの講義は堅苦しく不評でありました。

さらに高等学校では、ある生徒を叱責した数日後にその生徒は入水自殺してしまったのです。

エリート学生の死は社会に大きな影響を与え、後を追うものが続出、同じ場所で自殺を図った者は180名にも上ったのです。

自殺の原因は「失恋説」など様々なものが飛び交っていますが、これらのことが重なり、漱石さんはまたも神経衰弱に悩まされるようになりました。

 

病気を和らげるため、高浜虚子(たかはまきょしさんの勧めで『吾輩は猫である』を執筆、これを発表すると瞬く間に世間から好評を得るようになります。

高浜虚子さんとは、正岡子規さんの同郷であり、俳句を師事していたり、後継者としても期待をされていたお方。子規さんから「虚子」という名前を授かっています。ちなみに男性ですよ。

『吾輩は猫である』は、子規さんらが創刊した俳句雑誌『ホトトギス』で連載が開始され、さらに倫敦塔(ロンドンとう』『坊つちゃん』と作品を発表し人気作家となっていくのです。

 

しかしその後も病気に苦しめられ、療養のために訪れた伊豆の修善寺では胃潰瘍で大吐血を起こし生死の境を彷徨う危篤状態に陥ってしまうのです。

この時の体験により、その後の作品には「死」を連想させるようなものが多く見られるようになります。

 

そして、病気は最後まで完治せず享年49歳で亡くなります。

漱石さんの脳は現在も東京大学医学部に保管されているのだそうです。

 

 

夏目漱石の作品をいくつか簡単に紹介!

吾輩は猫である

夏目漱石さんの処女小説であり、好評を博したことが小説家への道を決定付けました。

 

英語教師に飼われている猫の視点から、彼の周りに集まる人々の人間模様を描いた作品。

この英語教師は漱石さん自身がモデルとされています。

 

倫敦塔

漱石さんがロンドン留学をした2年間の際、見物したロンドン塔をもとに描いた作品。

ロンドン塔とは、1000年代に外敵から守るために建てられた城塞。

後に、身分の高い者たちを収監、処刑する監獄としても使われるようになり、漱石さんはこの場所で亡くなった人物たちを幻想的に描いている。

 

坊つちゃん

家族から疎まれて育った”坊っちゃん”を下女の清だけはその性格を気に入り可愛がってくれた。

坊っちゃんは東京の学校を卒業後、四国の中学校の数学教師として赴任。そこでの人間模様を描いた作品。

四国に来て、人間の汚い面を知った坊っちゃんは、清がいかに良い人であったかを知ると、教師を辞職して帰郷し再び清と暮らすようになる。

 

ちなみに漱石さんの妻の本名も「キヨ」です。

 

それから

主人公は30歳になろうかという男。事業で財を成した父親の援助で、職にも就かず悠々自適の生活をしていた。

主人公とは対照的に、親友は銀行に就職し将来有望であった。

そんな中、2人の共通の同窓生が亡くなり、その妹が残された。

妹を深く愛していた主人公であったが、前途のない自分ではなく銀行勤務の親友に愛した女性を託した。

 

最後に主人公は、恵まれていた生活を捨て愛する人を選ぶのだった。

 

こゝろ

漱石さんの代表作の一つで、「日本で一番に売れている本」でもあるそう。(2016年時点)

「上・中・下」の三部構成となっており、

「上」では、語り手である「私」と「先生」との出会い、毎月欠かさず「先生」は友人の墓参りをする謎めいた行動。

「私」は父親の病気のために帰省、「先生」は父親が元気なうちに財産の始末をつけるようにという助言をする。さらに人間の悪い部分についても言葉が止まらず、過去に「先生」は人に欺かれたことを告白する。

 

「中」では、明治天皇が亡くなり、それを追うように「先生」からの分厚い手紙が届き、「私」はそれを遺書であると気づきます。

 

「下」では、その手紙の内容から、「先生」は過去に友人を裏切り自殺に追いやってしまった事実を語るのです。

 

 

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