【実在の人物?】平家物語「扇の的」で有名な那須与一はどんな人?

平安時代
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源平合戦の一つ「屋島の戦い」での休戦状況の最中、平氏方の余興で始まった「扇の的」

 

そこに1艘の船が現れ、美しい女性と竿の先に付いた扇。

「この扇を射ってみよ!」

と源氏軍に向けて、挑発してきます。

 

「ここで外せば源氏の名折れ!」

と源氏軍の大将・源義経(みなもとのよしつね

 

この先の源平の戦いを占う意味も込められていたとされているこの余興。

結末はどうなったのでしょう。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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平家物語「扇の的」

源義経が平氏を追い詰めると、平氏は船に乗って海へ逃げ出します。

 

次第に日が沈みかけ、今日は勝負を決せずと互いに退き始める。

 

その時、平氏軍の中から1艘の小舟が陸から80m辺りの所まで現れました。

その船には、18,9歳ほどの美しい女性と金箔で日輪を描いた扇

 

義経は、「あれはどいうことだ?」と家臣・後藤実基(ごとうさねもとに問う。

「射よということでしょう。しかし、大将が敵の矢の届く所まで出ていけば狙い撃ちにされます。

味方に、那須与一(なすのよいちという腕の確かな者がおります。
飛ぶ鳥も3羽に2羽は必ず射落とします。」

 

20歳ばかりの与一が義経のもとに呼ばれると、「あの扇の真ん中を射て、敵に見せてやれ!」

「お受け出来ません。射損じれば、味方の恥となります。しかるべき者に!」

義経はたいへん怒り、「鎌倉を立ち西国へ訪れた者は私の命令に従うべきだ。もしそれがわからなければ、今すぐに鎌倉へ帰れ!」

与一は観念し、「当たるか外れるか分かりませぬが、ご命令なので射てご覧にいれます。」

与一は、太く黒い馬に跨り、扇の的の方へと向かって行きます。

源氏の兵たちは、与一の背中を見送り、「この若者なら、見事仕留めるだろう」と言い合います。義経も頼もしく見守ります。

 

与一は馬を海の中に入れ10mほど進み、それでもまだ扇までは80m弱ほどはあるように見えます。

時は2月28日午後6時頃。北風が激しく、波も高く、船は揺り上げられ、扇を挟んだ竿も揺れています。

 

与一は目を塞ぎ、「南無八幡大菩薩、そして我が故郷の神よ、願わくばあの扇の真ん中を射させたまえ。もし射損じれば、自害して、再び人に面を向けることはない。
我をもう一度故郷へ帰そうと思うならば、この矢を外させたまうな。」

心の中で祈願して、今一度目を開けると、風が弱くなっていたのです。

 

与一は矢を取り、弓につがえ、よく引き、放ちました。

 

そして、扇は空へ舞い上がったのです。

 

 

 

那須与一、プロフィール

1169年頃、那須氏の居城、神田城(栃木県那須郡)で誕生したと推測されています。

与一とは、十余り一の意味で11男のことです。太郎が長男みたいなことですね。
本名は那須宗隆(なすのむねたかです。与一の方が覚えやすいですね。

 

源平合戦では、与一とその上の兄・那須十郎為隆(なすのじゅうろうためたかとともに源氏方に味方します。
それ以外の9人の兄は皆、平氏方に味方したのです。逆になぜ2人だけ源氏方?ってなりますね。

 

11男なのに家督を継ぐ?

十郎為隆も源氏方でしたが、義経さんの命に背き罪に問われてしまい、11男ながら与一が那須家の家督を継ぐこととなります。チャンスを全てものにした典型的なお人ですね。

しかし、与一は各地に逃亡していた兄たちを許し、領土を与えたりして那須氏発展に貢献しました。心優しき、兄想いのお人。

 

亡くなった事を偽装?

通説では、1189、1190年頃に20歳過ぎくらいに亡くなったとされていますが、源頼朝(みなもとのよりともさんの家臣・梶原氏との諍いを起こしてしまい、粛清を免れるために死を偽装したのではという説もあります。

 

頼朝さんが亡くなった後、那須に戻り出家し、源平合戦の死者を弔う旅を30年ほど続けたという伝説も残っています。

 

 

 

弓の腕前

幼い頃から弓の腕が達者で、父を驚かせていました。

那須温泉神社に必勝祈願に来た義経さんと出会い、父が十郎為隆と与一を源氏方に味方する約束を交わしていた。となると他9人の兄はなぜに平氏方?

 

弓の修行の積み過ぎで、左右の腕の長さが違うとか。

本当は兄の十郎為隆の方が弓の名手だったそうです。
「扇の的」の時は負傷しており、与一に譲ったのです。

 

 

那須与一は実在したのか?

この「扇の的」はまるで物語のようなお話で本当に現実にあった出来事だったのでしょうか。

事実、那須与一の名前が残されているのは『平家物語』源平盛衰記(げんぺいせいすいきの軍記物だけで、同時代の吾妻鏡(あずまかがみなどの歴史書には記載がないのです。

 

しかし、「扇の的」のような戦を占うような余興が行われるのはおかしいことではないようです。

距離に関しても、この扇の的の距離は80m前後

現代の弓道の遠的競技は60m

実際、現代の人が「扇の的」の実験を行い、的を射抜くことは不可能ではないということなのです。

 

逆に、「一ノ谷の戦い」で行ったとされる、急な崖を馬で駆け下りた「義経の鵯越(ひよどりごえの逆落とし」の方が不可能だったのでは?

 

 

 

まとめ

今回は、那須与一で有名な「扇の的」を紹介しました。

学校の教科書にも載っているお話なので知っている方も多かったのではないでしょうか。
那須与一も聞いたら忘れられない名前ですよね。

 

歴史は、脚色されて伝説のような話も多い中、この「扇の的」は物語感が強いのに現実に起こっても不可能ではないというところが魅力を引き出してくれますね。

 

実際に、実験をしていたというところも驚きです。やはり皆さん気になるんですよね。

少年の心は忘れてはいけません!

 

 

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