今回は「生麦事件」を紹介します。
早口言葉の最中に起こった事件でも、お米泥棒の事件でもありません。
単純に「生麦村」で起こったので「生麦事件」なのです。
この事件の名前はかなり知名度がありますが、何が起こったのか知らない方も多いのではないでしょうか。
最終的に、薩摩藩(現・鹿児島)とイギリスとの間で戦争が巻き起こってしまうほどの一大事件なのです。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
生麦事件の頃の日本はどんな時代?
1853年、ペリーさん率いる黒船が浦賀に来航し、開国を要求してきました。
この時より「幕末」の時代が到来します。
翌年には、アメリカとの「日米和親条約」が締結。
1639年から続いた「鎖国」に終止符が打たれました。
実のところ、アメリカ側の目的は、清(中国)や東アジアとの貿易のための燃料補給に、通り道であった日本の港が最適であったので開国を要求してきただけでした。
日本としては、黒船や大男が突然やってきて、どえらいもんが攻めてきたという感覚でしたが、アメリカとしては「少しだけ港を貸してー。」っていう感じだったのですね。
数年後、江戸幕府は天皇や朝廷の意向を無視して、不平等条約と呼ばれる「日米修好通商条約」を締結してしまったことの方が大変でした。
その時の幕府の責任者が大老・井伊直弼さんです。
幕府の外国に対する弱腰の姿勢に、日本全土が「倒幕」へと突き進んで行くのです。幕末っぽいですね。
幕府に対し批判をする者たちを、直弼さんは「安政の大獄」で処罰していきます。
1860年、その直弼さんは「桜田門外の変」で暗殺されてしまいました。
今回紹介する「生麦事件」は、外国を打ち払えという「攘夷」と、「開国」との間で揺れ動く時代に起こった事件なのです。
薩摩藩の行列400人と、馬に乗ったイギリス人4人!
薩摩藩主の父・島津久光(しまづひさみつ)の行列
幕末の薩摩藩は、前藩主・島津斉彬さんが積極的に幕府の政治に参加し、自らの養女・篤姫さんを13代将軍・徳川家定さんの正室に嫁がせるなど、次期将軍を決める「継嗣問題」で井伊直弼さんと真っ向から対立していました。
斉彬さんは、西郷隆盛さんを育て上げるなど、後の明治維新で活躍する薩摩の若者たちから慕われていたお方でもあります。
島津久光さんは、斉彬さんの異母弟に当たり、現薩摩藩主の父で、まだ若い藩主の代わりに薩摩藩の政治を指揮していました。
その久光さんが、軍勢を引き連れて江戸を訪れた後、京都へと帰る道中の生麦村(現・神奈川県横浜)で事件は起こりました。
観光していたイギリス人?
横浜在住のクラークさんとマーシャルさん、マーシャルさんの従妹で観光に来ていた香港在住のマーガレットさん、そして上海で商人をしているリチャードソンさんのイギリス人4人が、ここで乗馬や観光を楽しんでいました。
文化の違う異色な2つが出会うと危険な感じしか想像出来ませんね。
言葉と文化の違いで起きた悲しい事件!
1862年、島津久光さんの行列が武蔵国生麦村に差し掛かると、前方から騎馬のイギリス人4人と行き会います。
もちろん行列の先頭の方の薩摩藩士らは、「馬を下り道を譲れ!」と叫びます。
しかし、イギリス人にはそんな文化も無く、言葉も通じなかったため、「わきを通れ!」くらいにしか言われてないと思ってしまいます。馬を下りるという考えはなかったのですね。
イギリス人らは、道幅いっぱいに広がっていた行列に対しどうすることも出来ず、どんどんと真ん中を突き進んでしまいます。
薩摩藩士らは、このままだと久光さんの乗る駕籠にまで激突しかねないと不安になり、言葉も通じず行列を乱していくイギリス人らに数人が斬りかかったのです。
リチャードソンさんは深手を負い、200m先で落馬、もはや助からないとし楽にするつもりでとどめを刺したのは、西郷さんらと幼馴染で明治新政府でも活躍する海江田信義さんというお方でした。
クラークさんとマーシャルさんは重傷でありながらも馬で逃げ、マーガレットさんも一撃を受けますが帽子が飛ばされただけで無傷で逃げ切ったのです。
生麦事件のその後!
賠償金と犯人の引渡し!
島津久光さんら薩摩藩は、「浪人3~4人が突然現れ、外国人を切り伏せた。薩摩とは一切関係がない!」、「犯人探索に努めているが、依然行方不明のままである。」としらを切り通します。
イギリス側も、武器を取って直ぐにでも報復を行うべきとする者らと、全面戦争に発展してしまうことを危惧し幕府との外交交渉を行うべきとする者らに別れていました。
翌年、イギリスは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求してきます。現在の価値にすると90億円ほどだそうです。
徳川慶喜(のちの15代将軍)さんはこの支払いを拒否しますが、イギリスが戦闘準備を開始したため、老中格・小笠原長行さんは支払いに同意しました。これは慶喜さんの指示であったという説もあります。
続いてイギリスは薩摩藩に対しても犯人処罰と賠償金2万5千ポンドの要求をしてきます。
しかし、薩摩はこれに応じず、軍艦7隻を鹿児島湾に入港させていたイギリス艦隊に砲撃を開始、ここに「薩英戦争」が勃発したのです。
戦争開始から2日後には艦隊は鹿児島湾を離れますが、薩摩側は市街が焼失、イギリス側は戦艦大破や艦長、副長が戦死するなど互いに大きな被害を受ける形で終戦したのです。
この戦闘により双方が互いを詳しく知ろうという親密な関係となりました。お互いの戦いぶりを評価しあったということですね。
賠償金の件も、翌日にはイギリスに支払われ、この事件は終息へと向かいます。
犯人に関しても、「逃亡中」とされたまま処罰されませんでした。
民衆の反応!
事件が起きた直後の民衆たちは、「さすが薩州さま!」と喜んで行列を迎え、京では孝明天皇自らが久光さんをねぎらったといいます。
日本の民は外国人をよく思っていなかったようですね。
外国側からしても、生麦事件以前に薩摩の行列に遭遇していたアメリカ商人は、大名行列を乱す行為が日本の文化にどれほど無礼なことかを知っており、すれ違う際は馬を下り道端に避けしっかりと脱帽しているのです。
イギリス人の4人に対し「自ら招いた災難である」と非難しています。
当時の「ニューヨーク・タイムズ」に今回の事件が記載されており、リチャードソンさんは無礼な行動をとったとされています。
「条約は、住むことと貿易の自由は許しているが、日本の法や習慣を犯すことは許していない。」と記載されているのです。良いことを言っていますね。
しかし、幕府側にも落ち度があり、久光さんが江戸へ来るときの行列中に同じように騎馬の外国人に遭遇しており、今回のような無礼が見られていました。
「少しのことは目をつぶれ!」と藩士たちに言い聞かせていましたが、江戸に着くと幕府へ向け、「各国の公使館へ不作法を慎むように通告してほしい!」と訴えていました。
幕府の答えは「すでにそれは通告しているが、言葉が通じないために苦労している」とのこと。
実のところ、幕府はそれを伝えてはいなかったのです。何とも釈然としない事件です。
異国を訪れる際は、その土地の文化や言語を知っておく必要性があるということですね。
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