今回は「以仁王の令旨」について紹介します。
と聞いても、「以仁王」も「令旨」も「誰?何?」ってなる方も多いのでは…。
簡単に言えば、「平氏が好き放題やってるから、源氏の皆で平氏を倒そうぜ!」と天皇の子が内密に命令を下したという事です。
しかしその僅か数ヶ月後に、以仁王さんは平氏軍に襲われ命を落としてしまうという悲劇が訪れます。
皮肉にも、その後各地の源氏らが挙兵し、「平氏滅亡」を成し遂げます。
存命していれば天皇となっていたかもしれませんでしたね。
しかし、この「令旨」というきっかけがなければ、まだまだ「平家にあらずんば人にあらず」の時代が続いていたということなのです。
ということで、源氏を奮い立たせた「以仁王」とその「令旨」について紹介していきましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
以仁王とはどんな王?
1151年、第77代天皇・後白河天皇の第三皇子として誕生。
幼少の頃から、学問、歌、書や笛などの才能に恵まれ、さらに母方の家柄も良く、皇位継承を有力視されていました。
ちなみに後白河天皇とは、兄の崇徳天皇、子の二条天皇(以仁王の兄)、平清盛さんらと対立するなど、その頃の戦乱にはことごとく関わってくるような人物。
2012年大河ドラマ「平清盛」では、松田翔太さんが演じられ、清盛役の松山ケンイチさんの前に立ち塞がる役柄でした。
そんな以仁王さんに、清盛さんら平家の魔の手が襲い掛かります。魔というのはちょっと語弊がありますが。
後白河天皇は15歳年下の平滋子さんを寵愛するようになり、のちの高倉天皇を出産します。
この滋子さんとは清盛さんの妻の妹にあたるお方、さらに清盛さんは自身の娘を高倉天皇の皇后としました。
以仁王さんの皇位継承の消滅には滋子さんの妨害が遭ったとされており、さらに以仁王さんは「親王宣下」も受けられませんでした。
この「親王」とは、天皇の男子に与えられる最高位の称号であり、その後の待遇にも大きな差があるものなんです。
母の立場によっては宣下を受けられない場合もあるのですが、以仁王さんと同母の兄妹らは宣下を受けていますので、やはり政治的理由が原因としてあったと考えられています。
このようにして以仁王さんは皇位から遠ざけられていったのです。
以仁王の挙兵!
平家打倒計画?「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」!
表面上は良い関係を保っていた後白河上皇と平清盛さんでしたが、
1176年、朝廷と平氏の関係を支えていた平滋子さんが亡くなってしまいます。
その翌年、後白河上皇は延暦寺とのいざこざを起こします。
平氏に延暦寺への攻撃を命令する後白河上皇でしたが、清盛さんはこれに消極的でありました。
そんな折、鹿ヶ谷山荘にて後白河上皇らによる平氏打倒の会合が行われていました。
密告を受けた清盛さんは、延暦寺への攻撃ではなく会合に参加していた後白河上皇の重臣たちを捕らえていったのです。
しかしこの事件の裏には、朝廷と延暦寺との間に挟まれていた清盛さんの策略があったという説があります。
神罰などの恐れから延暦寺攻撃を回避したかった事や、朝廷勢力を潰すための一石二鳥の策略でもあったのです。
「治承(じしょう)三年の政変」というクーデター!
1177年の「鹿ヶ谷の陰謀」により、後白河法皇と清盛さんの関係は危機的状況となります。
1178年、清盛さんの娘・徳子さんと高倉天皇との間に第一皇子が誕生。次期天皇となるため皇太子にすることを後白河法皇に迫り、その周りの役職も平家一門で固めました。
1179年、次は後白河法皇が動きます。
清盛さんの娘・盛子さんと嫡男・平重盛さんが相次いで亡くなると、2人が所領していた場所に自身の近い人物に任せ、領土をある意味没収した形としたのです。
これに対し11月、突如として清盛さんは数千の大軍を引き連れ京都に上洛してきたことで、2人の関係を決定的なものとしました。
39名の後白河法皇の近臣らを解任、後白河法皇自身も鳥羽殿に移され幽閉状態とします。
以仁王さんは、皇位継承の望みを絶たれただけではなく、さらにこの時に所領没収の憂き目にあってしまったのです。
平氏の中の源氏、源頼政(みなもとのよりまさ)!
源氏であるにも関らず、平氏に仕える70代半ばの1人の武将がいました。源頼政さんというお方です。
源氏が没落した1159年の平治の乱の際も、当時の天皇である二条天皇に近い立場にいた頼政さんは同じく二条天皇側であった清盛さんに味方しました。
その経緯があり、頼政さんは清盛さんの信頼も厚く、源氏として初めて「従三位」という異例の出世を遂げます。
そんな頼政さんでしたが、突如として以仁王さんと共に平氏打倒の挙兵を計画するのです。
頼政さんの嫡男と清盛さんの三男・平宗盛さんとの間に起こった愛馬を巡る争い事や、仕えてきた二条天皇らとは違う系統で平氏の流れをくむ高倉天皇やその子・安徳天皇の即位に反発したのではという動機があります。
平氏全盛のこの世に、再度、源氏再建を内に秘めていたのかもしれませんね。
平氏追討の令旨!
「清盛や宗盛らの狂暴は、国を傾け、民を混乱させている。さらには、後白河法皇の幽閉、近臣らの流罪などで皇室に叛き、仏法を破滅させている。
この挙兵に応じなければ、清盛と同類と見なし死罪を科すであろう。
しかし、もし味方し戦功を挙げれば、私が即位した後、必ず恩賞を与える!」
1180年4月、平氏討伐を決意した以仁王さんは頼政さんの勧めで平氏追討の令旨を日本各地の源氏らに発し挙兵を促しました。
「親王」ですらなかった以仁王さんですが、自らを次期天皇としてこの令旨を発したのです。
平氏の血である高倉天皇や安徳天皇ではなく自身が正式な皇位継承者であると宣言するものでもありました。皇位継承を絶たれた以仁王さんにとって背水の陣の思いもあったのかもしれませんね。
以仁王の死!
宇治川の「橋合戦!」
「以仁王の令旨」を東国の源氏らに伝達して廻ったのは、後に鎌倉幕府を誕生させる源頼朝さんや源義経さんらの父・源義朝さんの末弟である源行家さんというお方でした。
しかし、これが僅か1ヵ月程で平氏に知られることとなり、以仁王さんの流罪が決定。名も「源以光」と変えられてしまいます。皇族が臣下の身分となったわけですね。
寺々に逃れながら平氏軍の追撃をかわしていましたが、ついに両軍は京の宇治川を挟んで対峙することとなります。10円玉でも有名な平等院の所です。
数万の軍勢であった平氏軍に対し、以仁王さんの軍勢は僅か数千程であったといいます。
数で劣っていた頼政さんは敗戦を覚悟し、以仁王さんを逃がすことが出来ると、息子たちが次々と討死していくなか自らも自害しました。
以仁王さんは30騎ほどに守られながら平等院を抜け出しますが、山城国(現・京都南部)で追いつかれ、敵の矢に当たり落馬したところを討ち取られてしまったのです。
謀反人という評価?
皇位継承への一縷の望みを託し令旨、挙兵といった行動に出た以仁王さんでしたが、父である後白河法皇の考えは、高倉天皇は自らが選んだ後継者であり、以仁王さんの取った行動は皇位簒奪であるとしたため謀反人の扱いをうけてしまっているのです。
しかし、この令旨が各地の源氏の下へ届かなければ平氏の世はまだまだ続いていたことでしょう。
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