今回は、宮本武蔵さんについてです。
「巌流島」で佐々木小次郎さんと戦ったお方。
剣がめっぽう強く、1度も負けたことがないお方。
実は他にも面白いお話があるんです。
天下分け目の「関ケ原の戦い」にも参加していたり、大変字や画が上手く、重要文化財にまで指定されているのです。
そして、「巌流島の戦い」についても数々の謎が残されていました。
剣豪・宮本武蔵さんについて分かり易く紹介していきましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
巌流島の戦い以前の宮本武蔵さん!
1582年、もしくは1584年、播磨国(兵庫県)、もしくは美作国(岡山県)で誕生したという2つずつの説があります。その理由として、いろんな人が武蔵さんについて書き残していますが、どれも一致していないのです。
1582年とは、織田信長さんが家臣・明智光秀さんの謀反で亡くなってしまった「本能寺の変」が起こった年です。
宮本武蔵さんは、13歳の武蔵くんの頃から大人と決闘をしています。しかも大人に勝ってしまうという強さなんです。
17歳頃、「関ヶ原の戦い」が起こります。
これにも2つの説があります。
武蔵さんの父は、九州の黒田家に仕えていたので徳川東軍として戦った説。
武蔵さんの父が、以前仕えていた主君が西軍側だったので、西軍として戦った説。
現在の数多くある宮本武蔵さんの小説などでは「西軍側」説を採用しているのがほとんどです。
1612年29歳、佐々木小次郎さんとの決闘「巌流島の戦い」へ。
これまでに60回以上の決闘を行うが、一度も負けなしです。
「決闘」は負けなしです。「戦い」は関ケ原で負けていたかも。
巌流島の戦い!
巌流島の戦いについて記されている書は10冊近くも残っており、すべて内容が違うものばかり、どれが真実なのでしょうか…。
「1612年4月、佐々木小次郎は舟島(後の巌流島)で宮本武蔵との1対1の勝負の時を待っていた。手には約90cmの長刀。
しかし約束の時刻を過ぎても武蔵は現れない。
イライラしながら待つ小次郎。
そして約束の時刻から2時間後、ついに武蔵は現れる。
「来るのが遅い!!」と小次郎。刀を抜き、鞘を投げ捨てる。
「小次郎!お前は敗れた。勝つつもりならば大事な鞘を捨てたりはしない。」
そして勝負は一瞬。
武蔵は電撃よりも早い一撃を入れ、小次郎を打ち倒した。」
これが今一番有名な話しとして残されていますね。
しかし、これ以外の逸話があります。
巌流島の戦いの真実!?
佐々木小次郎について
小次郎さんは生まれについて不明な事が多いのです。
巌流島の戦いのとき小次郎さんは18歳であるとされていて、現在も残る銅像も若々しいものばかりです。
しかし、実際は60歳を超えたおじいさんだったのではという説もあります。
そもそも巌流島の戦いや佐々木小次郎は全て創作なのではという説さえあります。
なぜなら、武蔵さんが後に書いた自伝に巌流島について何一つ書かれていないのです。自伝なのですから誰が何を書こうが、これが一番正しいのではと思います。
決闘!
1対1の決闘と約束していたが、武蔵さんの弟子たちが隠れていて、気絶していただけの小次郎さんを後で袋たたきにして殺した。
武蔵さんが遅刻してきたのも作戦で、小次郎をイライラさせ集中力を無くす戦法だった。
小次郎さんは剣術指南役として仕えていた小倉藩(福岡県)から、武蔵暗殺を依頼したという説もあります。
晩年の武蔵さん
1614年に起こった、豊臣vsと徳川「大阪冬の陣・夏の陣」に徳川方で参加。真田幸村さんも活躍しています。
さらには1638年に起こった、天草四郎さんで有名なキリシタン一揆「島原の乱」にも徳川方で参加。江戸初期の有名どころすべてに参加していました。皆勤賞です。
各地で剣術の指導や、養子を数人取り、有名城主に仕えさせるまでに育て上げています。教えるのが本当に上手だったんですね。
56歳頃には、熊本城主に招かれ、屋敷を与えられています。
そこで重要文化財にまでなっている水墨画を書いたり、兵法の極意や自伝となる「五輪書」を書いて晩年を過ごしました。
そして64歳で静かに生涯を閉じたのです。
まとめ
一説には、関ケ原の戦いで敗者である西軍側についてしまったため、夢であった「一国一城の主」になれず、各地を放浪していたとされていますが、こう見ると順風満帆に成功を治めている人にも見えてきますね。
夢を叶えられなかった想いから決闘に明け暮れていたのかもしれませんが、別の幸せも探せばいくらでもあるということなのです。
全ては諦めずやってみる事なんです。
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