「源平合戦」や「良い国つくろう鎌倉幕府」などで有名な源氏と平氏。
今回は、その中でも鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝さんと、その家族たちについて紹介していきます。
源氏の嫡男として鎌倉幕府を成立させますが、そこに辿り着くまでにさまざまな困難がありました。
平氏との戦いに敗戦、父、兄たちの死、流人生活、そして平氏追討の立役者である弟たちの追放。
源氏の衰退と再興までにはいったい何があったのでしょうか。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
源頼朝の父・源義朝!
保元の乱で父、弟を処刑?
1156年、皇位継承問題により朝廷内が分裂した内紛「保元の乱」が起こりました。
保元の乱とは、75代天皇・崇徳上皇と77代天皇・後白河天皇兄弟による内部抗争ですね。
この抗争に敗れた崇徳上皇は、讃岐国(現・香川県)へと配流され、二度と京に戻ることなく8年後に亡くなります。
怨みを残した崇徳天皇の怨霊伝説が有名ですね。
源頼朝さんの父・源義朝さんは、平清盛さんらと共に後白河天皇方につき勝利します。
そしてなんと、崇徳上皇方につき敗北した義朝さんの父・源為義さんや弟たちを処刑してしまうのです。
義朝さんをフォローすると、家族間で仲は悪かったとはいえ、降伏してきた父弟の助命を願いましたが叶わなかったのでした。
平治の乱で平清盛と対立!
保元の乱よりわずか3年後、1159年に「平治の乱」が起こります。
平治の乱の理由としては、後白河上皇と子・二条天皇との対立に巻き込まれたことや、保元の乱での源氏と平氏の恩賞の格差の不満などがありました。
一時、義朝さんは京にもっとも近い大国である播磨国(現・兵庫県)で播磨守の要職を任されるまでになったのですが(以前は清盛さんが播磨守でした)、朝廷の面々が清盛さんら平氏を後押しすようになり、義朝さんら源氏は討伐対象とされてしまったのです。
壊滅した義朝軍は再起を図るために東国へと落ち延びようとしますが、その途中、身を寄せていた家来の恩賞目当ての裏切りに合い、入浴中に殺害されてしまうのです。
その後は、「平家にあらずんば人にあらず」と言わしめるほど平氏全盛期の世となっていきました。
平氏に敗れた源頼朝の兄たちのその後は?
長男、鎌倉悪源太こと源義平(みなもとのよしひら)!
1141年、長男として誕生しますが、母は京都郊外の遊女とする説や、相模国(現・神奈川県)で大きな勢力を持っていた三浦氏の娘とする説があり、どちらにせよ正室の子ではないため跡継ぎである「嫡男」ではありませんでした。
頼朝さんより6歳上です。
15歳頃、父・義朝さんと対立していた叔父・源義賢さんを「大蔵合戦」で討ち取り、若くして武名を轟かせました。
この頃より、「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになります。ちなみにこの「悪」は「悪い人」という意味ではなく、「強い」ということらしいです。
この大蔵合戦で逃げ延びていた義賢さんの2歳の子・義仲くんは、後に頼朝さんと対立することになる木曾義仲さんです。この名前は結構有名ですね。
1159年、平治の乱の発生により、義朝さんは東国にいた義平さんに援軍要請します。
義平さんは、兵力で勝る平家軍と奮戦。
「逃げる平家500騎を義平さん率いる源氏17騎が追い回した!」なんていう伝説も残されています。
しかし、最終的に源氏は敗れ、義朝さんらと共に東国へと落ち延びようとしました。
その道中で義朝さんは殺害され、父の仇を討つために都に戻りますが、翌年には捕らえられ処刑されてしまいました。
享年20歳。
負傷により父の手で亡くなった次男、源朝長(みなもとのともなが)!
1143年、次男として誕生。頼朝さんより4歳上。
母は、義朝さんの家臣・波多野義通さんの妹。
弟・頼朝さんが兄・朝長さんよりも官位を超え嫡男となったために、義通さんと義朝さんの仲が悪くなったそう。正室ではないため仕方ないのかもしれませんが。
平治の乱で敗北し、東国へ下る途中で落人狩りに合い左ももに矢を受け負傷、敵の手に落ちるくらいなら死を望み、父の手により殺害してもらったといいます。
享年16歳。
朝長さんの墓が平氏に知られてしまい、父の首と共に京の河原に晒されてしまいました。
のちに首は奪い返され埋葬されますが、この理由で、朝長さんの墓は岐阜県と静岡県の2ヵ所にあるそうです。
江戸時代に入り、松尾芭蕉さんは朝長さんの墓を訪れ、
「苔埋む 蔦のうつつの 念仏哉」
と俳句を詠んでいます。
「苔や蔦のからまる墓ではあるが、墓前に立つと朝長殿の念仏が聞こえてくるようだ」といった意味ですかね。
源氏の嫡男、鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝!
1147年、義朝さんの3男として誕生。母は、貴族・藤原季範さんの娘の由良御前さん。義朝さんの正室であるため頼朝さんは源氏の嫡男でありました。
長男・義平さんは無官、次男・朝長さんよりも昇進が早いことから、嫡男としての待遇は良かったようです。
平治の乱の頃はまだ13歳であり、平家軍に敗れると、父や兄たちと東国へ向かいます。
しかし、年若かった頼朝さんは疲労から皆とはぐれてしまい、平氏に捕らえられてしまいます。
平清盛さんのもとに送られ処刑を覚悟しましたが、清盛さんの継母の嘆願などにより、処刑を免れ伊豆へ流刑となりました。
そして、約20年もの間、この地で流人生活をするこになるのです。
1180年、平家一門の台頭に不満を持つ者が多くなり、これを契機に後白河法皇の第三皇子・以仁王は全国に散らばる源氏に「平氏追討の命」を下しました。
頼朝さんも挙兵を決意し、源義経さんら弟たちも駆けつけます。
そして挙兵開始より5年後、ついに頼朝さんは平氏追討を果たし、鎌倉幕府成立を成し遂げていくのです。
しかしその裏には、平氏追討に尽力していた弟たちを処罰していくという事実もあるのです。
これについてはこちらの記事で紹介しています。
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