【源頼朝の弟】源氏の敗戦と平氏の滅亡、そして兄弟の対立とは?

こちらの記事で、鎌倉幕府を設立した源頼朝(みなもとのよりともさんの父、兄たちについて紹介しています。

「平治の乱」平清盛(たいらのきよもりさん率いる平家軍に敗れた源氏は、東国へ落ち延びようとしましたがその道中で皆が亡くなっていきます。

まだ幼かった頼朝さんも平氏に捕まり、伊豆へ流され、20年間も流人生活を強いられることとなったのです。

今回は、頼朝さんよりもさらに幼かった弟たちは源氏の衰退期をどう過ごしていたのか?そして、平氏追討を成し遂げた兄弟たちに一体何が起こったのか?

こちらを紹介していきます。

※歴史上のことなので諸説あります。

スポンサーリンク
レクタングル大

頼朝と同母、4男・源義門(みなもとのよしかど

1148年、源頼朝さん誕生の翌年に同母で正室の由良御前(ゆらごぜんさんの子として誕生しました。

平治の乱の頃、宮内丞(くないしょうという官職に任じられていますが、これ以降、存命していた記録がなく、平治の乱の源氏軍敗北の際に12歳の若さで戦死してしまったのではないかとされています。

実際、母も違っていたのではという説もありますね。

兄と同じく流罪となり、そして真逆の運命を辿った5男・源希義(みなもとのまれよし

1152年、正室・由良御前さんの子として誕生。頼朝さんとは5歳下の弟。

8歳頃、「平治の乱」で源氏が敗北、父や兄たちが亡くなり、兄・頼朝さんは伊豆国へ流罪となると、希義くんも土佐国(現・高知県)へ流罪となってしまいました。

20年後の1180年、源氏に「平氏追討」の命が下ると、兄の頼朝さんが鎌倉で挙兵します。

これに呼応する恐れがあった希義さんに対し、平家は「希義追討」を行ったのです。

打ち取られてしまった希義さんの師である琳猷上人(りんゆうじょうにんさんは、希義さんの髪を鎌倉の頼朝さんのもとへと届けると、

「亡き希義が訪ねてきたかのようだ…。」

と、頼朝さんは感謝を尽くしたそうです。

希義さんは、鎌倉の頼朝さんとは別に、独自の反平家勢力を拡大させていたという説もあります。

「平氏滅亡」もう一人の立役者! 頼朝の怒りを買い流罪になった6男・源範頼(みなもとののりより

1153年頃に誕生したと考えられ、平治の乱の時は存在を確認されず密かに育てられていたのではと言います。

母は、遠江国(とおとうみのくに(現・静岡県)池田宿の遊女とされていますが、そうではなく、父・源義朝(みなもとのよしともさんが東西を結ぶ交通の要であった池田宿との関係を築くために有力者の娘と婚姻したのではという説もあります。

1180年、兄・頼朝さんの挙兵の際にもまだ範頼さんの名前は確認されていません。

1183年、父・義朝さんの弟である志田(しだ(源)義広(よしひろさんが鎌倉に攻め込んで来たときに援軍として初めて名前が史料で確認されるようになります。

これより、末弟・源義経(みなもとのよしつねさんと共に、従兄弟にあたる木曾(きその(源)義仲(よしなかさんの追討や平氏滅亡への立役者となっていくのです。

範頼さんは頼朝さんにとても忠実で、勝手に事を運ばず、全て頼朝さんの判断に従う姿勢を持っていました。それとは逆に、弟の義経さんは命令を守らずに独自に行動する場面が合戦中や戦後にも多く見られました。

その理由もあり、頼朝さんと義経さんはのちに対立していくようになるのです。

頼朝さんのために多くの合戦に参加し戦功を立ててきた範頼さんでしたが、1193年、ある仇討ち事件が起こり、「この事件に巻き込まれた頼朝さんは亡くなってしまった」という訃報が流れました。

嘆く頼朝さんの妻・北条政子(ほうじょうまさこさんに対し範頼さんは、

「私がおりますので安心して下さい!」と慰めます。

しかしこの発言がなぜか、頼朝さんに対する謀反の疑いありとされてしまうのです。

そして、範頼さんは伊豆国へ幽閉され、その地で亡くなってしまいます。

今回の出来事は、北条家の陰謀ではないかという説があるのです。

頼朝の子と対立? 7男・阿野全成(あのぜんじょう

1153年、末弟・源義経さんと同母である常盤御前(ときわごぜんさんの子として誕生しました。幼名は「今若丸」

7歳頃、「平治の乱」で源氏が敗北したため醍醐寺(だいごじにて出家しています。この時に「全成」と改名。

1180年、兄・頼朝さんの挙兵に伴い密かに寺を抜け出し、兄弟の中で一番早くに頼朝さんの下へ合流、その志を泣いて喜ばれたといいます。

頼朝さんの妻で政子さんの妹の阿波局(あわのつぼねさんと結婚。この方はのちの鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねともくんの乳母となっています。

平氏が滅亡し鎌倉幕府が誕生しますが、1199年頼朝さんが死去、嫡男である源頼家(みなもとのよりいえさんが2代将軍となったのですが、独裁的なやり方に皆の反感を買い、

「実朝殿を将軍に!」

という声が上がっていました。

妻が実朝さんの乳母でもあり、北条家とも近い関係にいた全成さんに対し、頼家さんは先手を打つ形で謀反人として全成さんを常陸国(ひたちのくに(現・茨城県)へ流罪としてしまいます。

そして、その地で殺害させてしまうのです。

享年51歳。

挙兵に参加するが平氏に敗れた8男・源義円(みなもとのぎえん

1155年、常盤御前さんの子として誕生、幼名は「乙若丸」

同母兄の全成さんと同じく幼くして園城寺にて出家しています。

「平氏追討」の命が源氏に与えられると、父・義朝さんから一字取り「義円」と改名。「ぎえん」と読むところがお洒落さんですね。

鎌倉の兄・頼朝さんの下へ合流し、尾張(現・愛知県)で挙兵していた父の弟である源行家(みなもとのゆきいえさんの援軍に参加したという説、頼朝さんの下へは赴かず直接尾張に入ったという説があります。

どちらにせよ、この地で平氏軍と交戦し亡くなってしまいました。享年27歳。

この叔父である源行家さんが、以仁王(もちひとおうの命である「平氏追討の令旨(りょうじを各国の源氏たちに伝え歩いたお方なんです。

頼朝さんに決起を促した張本人でありながらのちに対立、同じく対立してしまっていた末弟の義経さんと手を結びますが捕らえられ斬首されています。

源氏一番の有名人! 牛若丸こと9男・源義経!

1159年、常盤御前さんの子として誕生、幼名は誰もが知る「牛若丸」です。

生まれた同じ年に「平治の乱」が起こり、源氏の敗北で父・義朝さんが死去、母と2人の兄と共に逃げ隠れます。

兄2人は出家し僧となり、牛若丸くんも鞍馬寺(くらまでらに預けられましたが僧になることを拒否、15歳の時に自ら元服を行い、名を「義経」としました。

この鞍馬寺の生活の時に、誰もがご存知、五条大橋で武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけいさんとの出会いがありましたね。

義経さんは、平泉(現・岩手県)の奥州藤原氏・藤原秀衡(ふじわらのひでひらさんを頼り、頼朝さんが挙兵をするまでこの地で過ごすことになります。

兄の範頼さんと共に平氏追討の遠征軍を任せられると、平氏滅亡に成功し最大の功労者となりました。

しかし、義経さんは頼朝さんの命に従わない独断行動が多々見られ、さらには頼朝さんの許可なく官位を受けた事で両者は次第に対立していくようになったのです。

1189年、平泉に身を寄せ鎌倉に対抗しようとしますが、秀衡さんが死去してしまうとその嫡男である藤原泰衡(ふじわらのやすひらさんは頼朝さんの圧力に屈し、「義経の指示に従え!」という父の遺言を破り、500騎の兵で義経さんを襲い自害に追い込んでしまったのです。

享年31歳。

この記事がおもしろかったら
いいね ! お願いします

スポンサーリンク
レクタングル大
レクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする