源頼朝さんはとっても有名「いい国つくろう鎌倉幕府」のお方です。
このフレーズは日本中の皆さんがご存知かなと。
今回は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝さんについて紹介していきます。
どのようにして鎌倉幕府が誕生したのか?
頼朝さんと奥さんとの恐い夫婦関係とは?
頼朝さんの死因の謎は?
そして、鎌倉幕府誕生の裏にあった平氏の陰謀とは?
などなど…。
それではまいりましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
源頼朝、鎌倉幕府誕生までのプロフィール
1147年、尾張国(愛知県)で、源氏の棟梁・源義朝さんの子として誕生。
13歳頃、平治の乱が起こります。
この戦いで源氏は敗れ、義朝さんは敗走、家臣のもとに身を寄せますが、恩賞目当ての裏切りで義朝さんは入浴中に襲撃されてしまったのです。
頼朝さんは、義朝さんとはぐれたところを平氏に捕らえられ、平氏の棟梁・平清盛さんに伊豆に流刑にされてしまいます。
本当は死刑になるところを清盛さんの継母に助けてもらっています。
幼くして亡くなった我が子に頼朝さんが似ていたからという理由で。それは確かに止めます。母性ですね。
この時より、20年の流人生活が始まったのです。
この生活中に、頼朝さんの監視役だった北条時政さんの娘・政子さんと結婚しています。
33歳頃、「平氏にあらずんば人にあらず」と言ってしまうほど、平氏は全盛期をむかえていました。
そこで天皇の子・以仁王が平氏に不満を持つ全国の源氏に「平氏討伐」の命を出したのです。子と言っても30歳くらいなのですが。
頼朝さんも「待ってました!」と立ち上がります。
頼朝さんの弟・源義経さんも立ち上がります。義経さんとは、五条大橋の牛若丸と弁慶の物語で有名な義経さんのことです。
38歳頃、義経さんとその仲間たちの大活躍により、平氏滅亡を成し遂げました。
しかし、義経さんは勝手に朝廷から褒美をもらったため、頼朝さんは激怒、奥州(岩手県)に逃げた義経さんを、血の繋がった弟にも関わらず自害に追い込んでしまったのです。兄弟喧嘩の域を越えてます。
そして1192年、ついに「いい国つくろう鎌倉幕府」が誕生したのです。
近年、1185年の「平氏滅亡」の時期からが鎌倉幕府誕生ではないかとする説が浮上しています。
「幕府」という言葉は江戸時代中期から使われている言葉なので誕生時期は結構曖昧だったのです。
「いい国つくろう」の覚え方は変えたくないですね。いい語呂合わせ。
源頼朝さんとはどんなお方?
容姿は、年齢よりも大人びていて美しかったとされています。イケメンであったようです。
身長も165㎝くらいとされ、当時としてはとても高身長だったのです。
全く団結力のない武士たちを一つにまとめ上げるほどの力量の持ち主。
武士のリーダーたちを自分の自室に1人ずつ招き、「頼りにしているのはお前だけだ!」と言い、全員を奮起させていたのです。かなりのやり手です。
朝廷から政治の実権を奪い、江戸幕府が終わるまでの680年間、武士が政治を行う「幕府」というものを作った創始者。この業績はとても評価されております。
自ら兵を率いることが少く、しかも同族や兄弟殺しが多いこともあり「冷酷な政治家」という評価もあります。クールなイメージですよね。
21歳頃、政子さんと結婚する以前に恋仲となった女性がいました。
その女性との間に男児を授かったのですが、平氏にばれるのを恐れた女性の父はその子を殺してしまったのです。
さらに父は娘を別の男性のもとに嫁がせてしまいました。
頼朝さんのクールな性格はこの出来事が原因なのかもしれませんね。
妻の政子はちょっと恐いお方?
頼朝さんの妻・政子さんは結構な鬼嫁イメージがあります。
足利幕府8代将軍であり、銀閣寺を建立した足利義政さんの妻・日野富子さんと、 天下統一を果たした豊臣秀吉さんの妻・淀殿に並ぶ「悪女」という評価もあります。「悪女」とはちょっといやな評価…。
頼朝さんが亡くなったあと、頼朝さんの子供たちに将軍を継がせ、自らも政治の実権を握るようになります。女性ながら政治を行っていました。
ちょっと怖い話を1つ。
政子さんが妊娠中、頼朝さんは別の女性と会っていました。いわゆる浮気なんですが…
政子さんはそれに気付くと、その女性の家を壊してしまったのです。嫉妬がやばい、やばいってもんじゃないですね。
当時、沢山の子孫を残すために一夫多妻は普通のことでした。しかも頼朝さんは将軍であります。跡取りは大事であります。
そんな頼朝さんは隠れるようにして他の女性と会っていたらしいです。
頼朝さんも可哀そうですが、怒られてでも女性たちに会いに行きたい頼朝さん。この方クールなのかな?
源頼朝さんの死因の謎?
頼朝さんは53歳の時に亡くなりますが、その原因には不明なことが多いんです。
①落馬説。これが一番有名です。
②溺死説。橋の上から落馬して川に落ちた。
③糖尿病説。水を欲していたり、視力が低下していた。糖尿病からの合併症であった?
④そして、暗殺説。
少しずつ毒を盛られ続けていて、落馬も毒が影響していた?
実際、落馬後17日経ってから亡くなっています。落馬が直接の原因ではなかったのです。
頼朝さんの子で鎌倉幕府2代、3代将軍も暗殺で亡くなっています。
その黒幕は、政子さんの父・北条時政さんであるとされています。
北条家はもともと「平氏の本家」。
京都で権力を持っていた平清盛一族は「平氏の分家」。
本家が権力を持つために頼朝さんに味方したのではないかと言われています。
ということは「源平合戦」は「平平合戦」だったということになりますね。
そして、鎌倉幕府が開かれたら源氏は用済みになってしまったってことです。怖い話です。
まとめ
「源頼朝」と「鎌倉幕府」、みんな知ってるとても有名なことですが、さらに深くまで掘り下げてみると、面白い事実がどんどん出てきますね。
「いい国つくろう」なんて言っちゃってますから、とてもいい時代なのかと思いきや、将軍が全員暗殺とは結構どろどろしてる時代でした。
「いい国つくろう」ですから、願望ってことだったのかな。
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