源頼家さんは鎌倉幕府の2代目将軍です。鎌倉幕府の創始者、源頼朝さんの子供ですね。
待望の後継者として周囲の祝福を受けて誕生した頼家くんでしたが、父・頼朝さんが亡くなると事態は急変したのです。
頼朝さんの後継者として期待されていた頼家くんに、いったい何が起こったのか。
それではまいりましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
鎌倉幕府2代目将軍源頼家、転落までのプロフィール!
1182年、「源平合戦」の真っただ中に鎌倉で誕生しました。
待望の後継者誕生で世間は大喜び。
頼朝さんも安産祈願を込めて、鎌倉武士の守護神でもある鶴岡八幡宮1,8Kmにもなる参道を整備。偉い武士たちも土や石を運ぶなど大いに賑わいました。
12歳頃、将軍としての権威を見せつけるための狩りで、大勢の部下の前で頼家くんは初めて鹿を射ました。
頼朝さんは大喜び。しかし母・政子さんは「武将の長男なら当たり前よ!」と言います。
頼朝さんが親バカなのか、政子さんが厳しいお方なのか。
しかし良い意味でツンデレが成立しています。
昨今に例を見ないほど、武芸の達人として成長していく頼家くん。
本人も「次期将軍」の意識を持って生きていたことでしょう。
18歳頃、父・頼朝さんが急死してしまいます。
頼家くんは2代目将軍を引き継ぐことになりました。
しかし、まだ若い頼家くんでは政治を任せるのは心もとないと、13人の有力家来が政治を取り仕切ると決めてしまったのです。
それに対して頼家くんも反撃。
「5人の若い家来だけとしか僕は話さないよ!」と言います。どんどん関係は悪化していくのです。
そんな状況の中でも政治の実権を握りたい頼家くんは、やり方が独裁的な方法になっていき、ついには周りの反感を買うようになっていました。
22歳頃、頼家くんは重い病気にかかってしまいます。
これはチャンスと母・政子さんの実家である北条氏は、頼家くんの味方であった妻の実家・比企氏を滅ぼしてしまったのです。頼家くんの長男も一緒に…。
病状が回復した頼家くんは大激怒!!
北条氏を滅ぼそうとしますが、誰も味方はおらず、しまいには母・政子さんに無理矢理に出家させられ、お寺に入れられてしまいました。
そして23歳の時、入浴中に北条氏の手によって暗殺されてしまったのです。
権力争いに巻き込まれた頼家!
比企氏vs北条氏!
父・頼朝さんにとても愛された頼家くんでしたが、母・政子さんからはあまり愛情をもらえなかった模様。
おそらくそれは、頼家くんは比企氏に育てられており、政子さんは北条氏のお人だから。
これは「比企氏vs北条氏」の権力争いだったのですね。
2代目将軍となった頼家くんでしたが、北条氏の策略で思うような政治が出来なかったのですね。
無理に政治を行おうとしてもそれは独裁政治だと言われてしまう始末。
頼家くんの評価は、「暗君」とされていますが、それは北条氏の策略だったのです。
本当は「名君」であったが、北条氏にその芽を摘まれてしまったという説も。
北条氏の陰謀!
北条氏は元々は平氏の本家でした。頼朝さんに滅ぼされた京都平氏・平清盛さんらは平氏の分家です。
北条氏は、本家の力を取り戻すために頼朝さんの力を利用したのではないか?
そして、用済みになった頼朝さんを落馬に見せかけ殺害したのでは?
事実、頼家くんの子供たちはみんな非業の死を遂げています。
頼家くんには4男1女の子供たちがいましたが、息子たちは北条氏が絡んでいる事件で非業の死を遂げていますし、娘は33歳の時の初産が難産で、そのまま亡くなってしまったのです。
さらには、頼朝さんの次男で3代目将軍・源実朝さんも、なんと頼家くんの子供に暗殺されてしまうのです。
これで頼朝さんの血筋は完全に断たれたことになります。
北条氏はこの先、お飾りになった将軍の下で鎌倉幕府を支配するようになるのです。
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