鎌倉幕府3代目将軍・源実朝さんと聞いても知名度はあまりないかもしれませんね。
やはり鎌倉幕府と言えば「いい国つくろう」の源頼朝さんですかね。
頼朝さんは今までの天皇政治から武士政治に変えた偉大なお方。
鎌倉幕府から江戸幕府の終わりまでの700年間は武士による政治なんですね。
実朝さんは頼朝さんの4男ですね。
そんな初代鎌倉幕府将軍・頼朝さん、2代目、そして3代目・実朝さんはみんな「暗殺」されてしまっていたのです。
頼朝さんは「落馬」が死因なんですが、毒を盛られての落馬という説がありますので。
ということで今回は、源実朝さんについて紹介していきます。
それではまいりましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
鎌倉幕府3代目将軍・源実朝、プロフィール
1192年、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝さんの子として鎌倉で誕生。
7歳頃、父・頼朝さんが不可解な落馬事故で死去。
兄・頼家さんが2代目将軍を継ぎますが、母・政子さんの実家である北条氏とどんどん仲が悪くなっていきました。
さらに頼家さんの独裁政治で家臣からの評判も悪くなっていくのです。
12歳頃、ついに兄・頼家さんは将軍職を奪われ、伊豆に出家させられちゃいます。
そして、実朝くんが3代目将軍を継ぎました。
その翌年、兄・頼家さんは北条氏に暗殺されてしまったのです。
15歳頃、兄・頼家さんの次男・善哉と親子関係を結びます。
跡継ぎに恵まれず、自分の代で源氏将軍は途絶えてしまうと悟り、せめて高い官位だけは持って後世に残したいと、朝廷と仲良くし異例の速さで昇進して行きます。
武士として初めての「右大臣」という官位まで上りつめました。
実朝さんは、病弱であったために武芸に秀でてはいませんでしたが、和歌を大変好み百人一首にも名前が載っています。数々の和歌が歌集に選ばれているのです。
そして、28歳の時、その右大臣祝賀の鶴岡八幡宮参拝で事件は起きたのです。
そして暗殺…。
雪が降りしきる1月末の18時頃、実朝は家臣1000人を引き連れて鶴岡八幡宮を参拝していた。
太刀持ちをする予定であった母・政子の弟・北条義時は体調不良のため、実朝の教育係りでもあった源仲章に変わっていた。
20時頃、参拝を終えた実朝が家臣の元へ戻ろうとしたとき、突如、頭巾を被った3,4人の男たちが襲いかかってきた。
その中の1人が、実朝の衣の裾を踏みつけ転倒させる。
「親の仇は我が打つ!」
と男が叫び、実朝の首に刃を振り落としたのです。
太刀持ちであった源仲章もその場で切り伏せられました。
その男は、「我は公暁なり!父の仇は打ち取った!」と叫び、その場から姿を消した。
この時、武装していた実朝の家臣1000人は境内の外にいたのです。
実朝の首を落とした公暁は、育ての母の夫・三浦義村のもとへ「これからは我が将軍だ!準備をせよ!」と使いを出します。
しかし、義村はそのことを北条義時に話すと、その後、公暁も何者かに殺されてしまったのです。
公暁とは、2代目将軍頼家の次男・善哉でした。
出家して公暁に名を変えていたのです。
実朝とも親子関係を結んでいたので、父を殺したことになるのです。
公暁は20歳の若さでした。
実朝暗殺の真相!
①単純に将軍職を継ぎたかった。
しかし三浦義村さんは不可解な行動をとっています。
このまま公暁が将軍になれば、敵対していた北条氏よりも力を持つことになるが、その北条氏に公暁の居場所を伝えています。
三浦義村さんが公暁をけしかけた「黒幕」とされていたのに。
➁親・頼家の仇である北条氏を討つため。
予定では太刀持ちは北条義時さんだったが、途中で変わっています。
本当は実朝さんではなく北条義時さんを討つつもりだった?
そして実朝もついでに殺されちゃった?
義時さんは刺客が来ると予感していたから、直前で太刀持ちを源仲章さんと変わったのか。
実行犯・公暁が殺されてしまったために真相は闇の中です。
しかし結果だけを見ると、源氏将軍の血筋は完全に絶え、朝廷と実朝さんの間を取り持っていた源仲章さんも殺され、北条氏が支配する武士政権が完璧なものになっていますね。
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