松平容保さんをご存知ですか?
名前は読みにくいですが、一度は聞いたことがあると思います。
「京都守護職」や「新選組の上司」と合わせればさらに「あー!」ってなるのでは?
実はこのお方、新選組の上司ということですが、新選組局長・近藤勇さんや副長・土方歳三さんよりも1~2歳下なんです。
ドラマなどで若い役者さんが演じられますので、「知ってるよー!」って、なかったかもしれませんね。
ということで、今回は江戸幕末期に京都守護職の任で活躍された、新選組の上司でもある松平容保さんについて紹介していきます。
徳川家康さんや、水戸黄門様のモデルの徳川光圀さんの子孫でもあるお方なのです。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
会津の生まれではない!
1836年、高須藩(岐阜県)の藩主の7男として、江戸四谷の藩邸で生まれました。
10歳頃、叔父にあたる会津藩8代藩主・松平容敬さんの娘と結婚、婿養子となります。
会津家の人々が騒ぐほどの美少年だったそうなんです。
「徳川家に忠義を尽くす」といった、会津の家風を教え込まれます。
しかし、この「会津藩家訓」がのちの戊辰戦争での会津の悲劇ともされているのです。
徳川家康、水戸黄門様の子孫!
容保さんの祖父が高須藩に養子に入っており、元々は徳川御三家の一つ「水戸徳川家」の血筋であるため、徳川幕府を作った家康さん、水戸徳川家の2代藩主の水戸黄門様こと徳川光圀さんの血筋をがっつり受け継いでいるのです。
苗字が違うので、想像していませんでしたね。
26歳で「京都守護職」に!
会津藩9代藩主・松平容保!
16歳頃、8代藩主・容敬さんが亡くなり、会津藩9代藩主となります。
24歳頃、大老・井伊直弼さんが水戸脱藩浪士に暗殺された「桜田門外の変」が起こってしまいます。
この責任を水戸家に取らせるため、尾張家と紀伊家の徳川御三家同士の争いが起ころうとしますが、容保さんはこれの解決に尽力しました。
水戸家の血を継いでいますから、見過ごせなかったのでしょう。水戸黄門様の血ですね。
京都守護職は断り続けていた?
幕末の京都は、江戸幕府の権威が低下しているのに伴い、各地の過激浪士が集まっていて治安が最悪なものとなっていました。
暗殺や強盗が日常茶飯事状態だったのです。
そこで白羽の矢を向けられたのが、会津藩主の容保さんでした。
しかし、容保さんは「そんな大任に当たる自信はなく、家臣たちも都の風習には疎い。万が一何かの失敗があれば徳川家に死をもって償わなければならなくなる。」
家臣たちも「現在の幕府の情勢は悪く、今この大任に当たるのは、まるで薪を背負って火を救うようなものだ!」と上手いことを言って反対していました。
のちの将軍でもある徳川慶喜さんや福井藩主の松平春嶽さんが日夜勧誘におと連れ説得を試みます。
最後には、「会津藩の家訓は、徳川家と共にあり、守るためにあるのではないか!?」
さすがのこの一言で、容保さんは承諾するしかなかったのです。ちょっとずるいですね。
容保さんの会津の家訓を思う気持ちに感激し、家臣たちは「京を死に場所としよう!」と肩を抱いて泣いたといいます。
「これで会津は滅びる」と言ったとも?
京都守護職とはそれほど大変な任務だったのですね。
そして26歳頃、容保さんはついにこのの任に就いたのです。
京都での松平容保さん
程なくして、会津より京都へと上洛します。
当時では斬新であった、軍艦で京へ向かうという意見もあり、容保さんもこれに賛成しますが、家老たちから猛烈な反対を受けてしまいます。
「航海経験の浅い山国育ちの我々が、海の上でどうやってあなた様を護ればいいのですか!?」
絵に描いたような家老のセリフです。
この家老とは西郷頼母さんというお方で、京都守護職の際にも断固として反対していたお人ですね。
頼母さん、家老という役職とドラマのイメージで結構なお歳の方を想像しますが、容保さんと6歳ほどしか変わりません。
浪士の意見を汲み取る「言路洞開」
容保さんは、天皇の考えである「鎖国」と民たちの外国人を追い払う「攘夷」を尊重しつつ、外国の長所の部分を吸収し、軍艦大砲などの軍備を備えます。
「鎖国攘夷」を受け入れつつ、徐々に「開国」へと考えを向けさせようとします。
この考えは、天皇にとても評価されていました。
京都の治安維持にも、力での鎮圧であたらず、「言路洞開」という下の者の意見を汲み取る方針を打ち出します。
「浪士が騒ぐのは意見が上に通らないからだ、話せば分かり合える。」
とても良い上司ですね。
「策は練らなくてよい!最後には必ず一途な忠誠が勝つ!」とも言っています。
新撰組を「会津藩お預かり」に!
その頃、ある事件が起こります。「足利三代木像梟首事件」です。
京都のお寺にあった、室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が賀茂川に晒された事件。
これには容保さんも大激怒!「許すべからず!」
この翌月には、将軍護衛で江戸より京に上ってきた、近藤勇さんや土方歳三さんなどのちの新選組となる面々を「会津藩お預かり」として、京の治安維持にあたらせました。
そして、新選組は容保さんの期待に応えるように京都の町で大活躍をしていくのですね。
会津戦争の悲劇へ。
幕末に入り、江戸幕府は薩摩藩、長州藩との争いが一触即発となっていき、最後の将軍となった徳川慶喜さんが「大政奉還」を宣言し、政治を朝廷へ返すと、その2か月後には「王政復古の大号令」で幕府、そして京都守護職は廃止となったのです。
新政府軍VS旧幕府軍の「鳥羽・伏見の戦い」から戊辰戦争は開戦してしまいます。
旧幕府軍は、朝廷に敵対する「賊軍」となってしまい、江戸城開城、そして会津戦争へと進んでいくのです。
まとめ
今回は、新選組の上司でもあり京都の治安を守る「京都守護職」でも有名な松平容保さんについて紹介しました。
京都守護職時代はまだ20代で、新選組の近藤勇さんや土方歳三さんよりも歳下ですし、かなりの美男子で会津や京都の女性たちに人気があったようです。
浪人たちの意見を聞くことが治安を守ることに繋がるといった、立派な考えの持ち主でもありましたね。
しかも、実は京都守護職になりたくなかったというのにも驚きです。
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