幕末の世にその名を轟かせ、現代でも大人気の新選組。
その隊の局長である近藤勇さんは誰もがご存知でしょう。
そして、近藤さんが亡くなった場所は「板橋」。
結構これは有名なんですが、何気なくふわっと聞き流すと「地方のとある橋の上」なのかなと思いがちなんですが、よくよく考えると池袋の1つ隣の駅である「板橋」のことなんですね。こんな身近に!と私も思いました。
お墓も駅の目の前、徒歩1分のところにあるのです。ファンなら是非とも訪れていただきたい。
ということで今回は、新選組局長・近藤勇さんはどのようにして亡くなったのか、なぜに板橋の地にお墓があるのかを紹介したいと思います。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
近藤勇と新撰組を簡単に紹介!
1834年、武蔵国多摩(現・東京都調布)で百姓の家に生まれました。この時の名は「宮川勝五郎」です。
15歳頃、江戸牛込にある「天然理心流剣術道場・試衛館」に入門。
その1年半後に目録を受けると、同じ年に天然理心流3代目・近藤周助さんの養子となり名を「近藤勇」と名乗るようになります。
試衛館には、のちの新選組中核メンバーが出入りしてのは有名な話ですね。
門弟として、土方歳三さん(副長)、沖田総司さん(1番隊組長)、井上源三郎さん(6番隊組長)、山南敬助さん(総長)。
食客として、永倉新八さん(2番隊組長)、原田左之助さん(10番隊組長)、藤堂平助さん(8番隊組長)、斎藤一さん(3番隊組長)。
すでにほとんどが勢揃いしていますね。
将軍警護で京へ上る!
26歳頃、将軍家御三卿である「清水徳川家」の家臣の長女と結婚します。
翌年、天然理心流4代目を襲名。
そして28歳頃、14代将軍・徳川家茂さんの上洛に伴う警護募集「浪士組」に参加することになります。
しかし京へ到着してみると、この浪士組は将軍警護ではなく、幕府を倒し政治を天皇に返すべきだとする運動「尊王攘夷」のために集められた者たちだったのです。
これに近藤さんら試衛館の面々は反発、浪士組から離脱して、京都守護職であった会津藩のお預かり「新選組」として、京の町の治安維持に大活躍していくのです。
衰退していく新選組!
隊の発足時は24名という少数でしたが、最盛時には200名を超える大所帯となっていく新選組。
浅葱色のだんだら模様の羽織を着て華々しさを感じますが、その活躍も3~4年という短いものなんです。
町人や農民など身分を問わない人たちで構成されていた新選組を統率するために「局中法度」という隊規を定めていました。
倒幕志士との戦闘による隊士の死者は6名しかいなかったにも関わらず、隊規違反を犯した者の処罰での死者は40名を超えていたのです。新選組の強さと厳しさが分かる数字ですよね。
近藤さん33歳頃、15代将軍・徳川慶喜さんは政権を朝廷に返す「大政奉還」を行いました。
これにより、鎌倉幕府より670年も続いた武士による政治は終わりを告げたのです。
その後、「王政復古の大号令」により新明治政府が樹立、新選組は旧幕府軍として新政府軍との戦いに突入していくのです。
近藤勇の最後!
流山で新政府軍へ出頭!
新政府軍vs旧幕府軍「戊辰戦争」が京の鳥羽・伏見の戦いから開戦すると、新選組も参加しますが敗戦、大阪ら江戸へ幕府の軍艦で帰還します。
江戸で「甲陽鎮部隊」と名を変えた新選組でしたが「甲州勝沼の戦い」でも1日で敗北してしまいました。
この時の旧幕府軍は、江戸城を無傷で明け渡すという白旗状態であったとされ、まだまだ抗戦派であった新選組を江戸より排除するために甲州治安維持を命じたのだと言われております。
事実、幕府側の勝海舟さんと新政府側の西郷隆盛さんによって、江戸を戦場にすることなく「江戸城無血開城」は成功したのです。
敗れた新選組は、再起を図るため隊士募集を行いながら江戸郊外の千住(現・足立区綾瀬)、そして下総国流山(現・千葉県流山)へと拠点を移していきます。
しかし、200名を超えていた人の動きは新政府軍に怪しまれ、流山の本陣を包囲されてしまうのです。
この時はまだ新選組であるということはバレてはおらず、「治安維持を命じられている幕府の鎮撫隊である」と説明します。
武装解除を要求されると、近藤さんは「幕臣・大久保大和」として出頭したのです。
近藤勇であるとバレてしまった理由?
大久保大和として出頭した近藤さんでしたが、ここで新選組にとって大誤算が起こります。
当時は写真などが出回っているわけでもなく、名は知れ渡っているが顔は分からないといった感じでした。
しかし、新政府軍に近藤さんの顔を知っていた人物がいたのです。
彦根藩士・渡辺九郎左衛門さんです。
彦根藩は、大老・井伊直弼さん暗殺事件「桜田門外の変」などもあり、幕府より咎めを受け10万石も減封されるなど不満をかなり抱えていました。
そして今回の戊辰戦争では、幕府軍としてではなく新政府軍として鞍替えをしていたんです。
京都守護職を任命されていた会津藩は、新選組の上司のような関係ですが、元々は京都守護職は彦根藩の役割だったのです。
そのこともあり、近藤さんとは面識があったのですね。
近藤さんは新政府軍本部のある越谷、さらに板橋の総督府へと連行されます。そしてここでも最悪の出会いが待ち受けていました。
最後まで否定し続けていた近藤さんでしたが、板橋の総督府に元新選組隊士が新政府側として参加していたのです。
これには近藤さんも言い逃れは出来ず、「罪人、元新選組局長・近藤勇」となり、この板橋の地で4月25日、斬首。享年35歳でした。
元隊士が局長を売った理由?
京での新選組時代、試衛館時代からの同士である藤堂平助さんの紹介で伊東甲子太郎さんという方が入隊します。
しかし、伊東さんは「倒幕思想」を持っていたため近藤さんらとは考えが合わなかったのです。
入隊して2年半後、隊士14名を引き連れ新選組を離脱し「御陵衛士」なる組織を結成。
彼らは、近藤さんを暗殺し新選組を乗っ取る計画を立てるのです。
この計画を事前に察知した新選組は、近藤さんの妾宅に伊東さんを呼び酒を交わしました。そして、酒に酔わせた伊東さんをその帰途で暗殺したのです。
さらに伊東さんの遺体をそのまま放置、回収に来た他の御陵衛士たちを誘き出す囮に利用し、新選組は御陵衛士を壊滅させたのです。これが「油小路事件」です。
この油小路事件で生き残った者が、新政府側にいた加納鷲雄さんと清原清さんだったんですね。
運命とは時折、残酷なものですね。
まとめ
近藤さんは武士にっとって厳しい処罰である「斬首刑」に処されました。
これは、土佐藩の坂本龍馬さん暗殺は新選組が関わっていいたと当時は思われていたからで、新政府側の土佐藩と薩摩藩で近藤さんの処遇をめぐる対立があり、土佐藩が押し切った形となりました。
4月25日、中山道板橋宿近くの板橋刑場(現・北区滝野川)で、見物人が大勢いるなかの公開処刑だったそうです。
近藤さんの首は、京へと送られ三条河原に「極悪人」の罪状を付けられ3日間も晒されたのです。
2004年大河ドラマ「新選組!」で、今回の近藤さんと元新選組隊士の面会のシーンがあります。
事実、加納さんや清原さんにとって近藤さんは伊東さんの仇なわけですから、自ら進んで「あいつは元新選組局長・近藤勇だ!」と宣言しました。
流石の近藤さんも顔色を変えたそうです。
しかし、ドラマでは真実を話すべきか戸惑っている加納さんに近藤さんの方から、
「加納君お久しぶりです。」
「ご無沙汰しております。局長!」
とてもグッとくるワンシーンでした。
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