「1192つくろう鎌倉幕府」
これを教わったとき、なんて覚えやすい語呂合わせなんだと思いましたね。
一度聞いたら忘れません。てか忘れられません。
しかし、近年この鎌倉幕府誕生の年が1192年ではなく、1185年であると変更されていました。
これは一大事! 誰もが知っている最強の語呂合わせであった「いい国つくろう」は、「いい箱つくろう」へと覚え方も変わってしまっていました。 どことなく無理矢理感が否めません。
なぜに最強の語呂合わせが変更されたのか、歴史を紐解いていきましょう!
※歴史上のことなので所説あります。
この記事のあらすじ
そもそも鎌倉時代っていつ頃?
今から約800年ほど前の平安時代後期、永遠のライバルであった「源氏」と「平氏」が「源平合戦」と称して幾度となく戦っていました。
この戦いにより栄華を誇っていた平氏は源氏に滅ぼされ、源氏の棟梁・源頼朝さんは、明治時代まで680年間続いた武士政権である幕府を開いたのです。
それが1192年であり、いい国つくろう鎌倉幕府のスタートであるとされていました。
なぜ年代が変わったの?
そもそも鎌倉幕府発足年については、1192年と1185年の他にも1190年、1183年、1180年と様々な説が唱えられていたのです。
1180年
源頼朝さんが平氏追討のために挙兵を開始し、鎌倉入りをはたして新たな邸宅を築いた年であります。
そして、「侍所」といわれる御家人を統率したり、罪人を収監する組織が設置されました。
しかしこれはあくまで、南関東を支配しただけの勢力に過ぎず、まだまだ西国では平氏が栄華を誇っていました。
1183年
「寿永二年十月宣旨」により、朝廷から東国の支配権を公認されています。
難しい内容は抜きにして、この時に下された天皇の命令ということです。
1185年
源頼朝さんの弟・源義経さんらの活躍により、「壇ノ浦の戦い」(現・山口県下関市)で平氏が滅亡さします。
朝廷は、頼朝さんに全国への「守護・地頭職」の設置を許可しました。
「守護」とは、国ごとに1人が任命され、現在で言う警察組織のその国でのトップの方です。
「地頭」とは、国よりもさらに狭い範囲内で1人ずつ設置され、主に治安維持や年貢の徴収などを行う方々。
頼朝さんは既に東国で守護・地頭職の設置は行っており、今回の平氏滅亡により西国の設置も許可されたということになります。
これにより日本全土の軍事責任者となったわけです。 これが、鎌倉幕府発足が1185年となった理由であります。
1190年
源頼朝さんは、「右近衛大将」に就任されます。宮中の警護をする近衛府の長官です。
公家の中でも最高幹部として政治を行う職位である「公卿」となり、武士でありながら列するようになります。
公卿になったことで、所領を管理する家政機関である「政所」の開設を許されます。 このことが、1190年説の理由となります。
1192年
源頼朝さんは1192年、「征夷大将軍」に任命されます。
征夷大将軍とは、朝廷の官職の一つであり、もともとは朝廷に従わなかった東北地方の者たちを征討するために任命された役職。
頼朝さんは、すでに東北地方で力を持っていた奥州藤原氏を滅ぼしていましたので、望んでいたのは「大将軍」という称号であったとされています。 そして、武士の棟梁として武家政権が開始されていったのです。
これが長い間、1192年が鎌倉幕府成立年とされてきた理由であります。
“幕府”という言葉は江戸時代末期につけられた?
実は、当時は鎌倉幕府と呼ばれていなかったことをご存知でしょうか。
現在で言う鎌倉幕府は、武士たちからは「鎌倉殿」、朝廷や公家たちからは「関東」と呼ばれていました。
この頃の幕府の意味とは、将軍の居城を指す名称でしかなかったのです。中国の戦国時代、王に変わり指揮をとった将軍の陣地の名称から取ったものでした。
現在のような鎌倉幕府や室町幕府といった武家政権として用いられるようになったのは、江戸時代やさらに明治時代に入り、中国を研究していた者たちによって広まったのです。
まとめ
今回は、「鎌倉幕府誕生の年号が変わった理由?」といったテーマで紹介しました。
鎌倉幕府誕生には、1192年と1185年以外にも多くの説が唱えられており、長い期間たくさんの論争がされてきたそうです。
源頼朝さんが「今日から鎌倉幕府を開きまーす!」と宣言したわけではありませんからね。
長きに渡って親しまれてきた鎌倉幕府の年号が変わったのには寂しさも感じますが、歴史は時が進むにつれて新たな発見や考察も生まれてきますので、このような変更は当たり前のことなのかなとも思います。
いずれまた「いい国つくろう」に戻る日がくるかもしれませんね!
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