【岩倉具視】明治政府を誕生、鉄道会社の設立、そして500円札の肖像画に!

今回は岩倉具視(いわくらともみさんを紹介します。

具視さんの名前は有名ですよね。

幕末から明治にかけて描かれる作品には必ずといっていいほど登場してくるお方です。

しかし、「何をした人なの?」ってなると、結構「?」の方も多いのでは?

ということで今回は、旧500円札の肖像画にもなっている岩倉具視さんについて簡単に紹介していきます。

お札に抜擢されるほどですから凄いお方なのです。

※歴史上のことなので諸説あります。

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下級公家の身分だった岩倉具視!

1825年公卿(くぎょう・堀河家の次男として誕生。

容姿や言葉使いに全く公家らしさがなく、浮いていた子供でした。

朝廷儒学者であった公卿・伏原宣明(ふせはらのぶはるさんは「大器の人物である」と見抜いており、岩倉家への養子を推薦していました。

13歳頃、岩倉家の養子となり伏原さんから「具視」の名を頂きます

公家社会では身分が厳しく、岩倉家は江戸時代に分家したばかりの新しい家柄であったため、位や官職は高くはありませんでした。

28歳頃、公家の頂点の家格である五摂家(ごせっけの1つ鷹司(たかつかさ家に歌道入門したことが、朝廷への発言が出来るようになった大きなチャンスとなります。

尊王攘夷運動に巻き込まれ、蟄居処分へ!

八十八卿列参(きょうれっさん事件!

1858年、アメリカのハリスさんが日本にとって不利な「日米修好通商条約」の締結を求めてきます。

幕府の老中・堀田正睦(ほったまさよしさんはその許可を孝明(こうめい天皇から得るべく京都を訪れます。

岩倉さんら多くの公家たちはこの条約に反対、公卿88人で抗議したのがこの事件です。語呂が良いですよね。

賛成派であった関白・九条尚忠(くじょうひさたださんらは病と称しその場に現れませんでした。仮病を使うところが公家っぽいと思うのは僕だけでしょうか?

このような事件もあり、孝明天皇は条約の許しを与えなかったのです。

岩倉さんにとって初めての政治活動となりましたね。

安政の大獄と桜田門外の変!

しかしその僅か3ヵ月後、大老・井伊直弼(いいなおすけさんによって「日米修好通商条約」は締結されてしまうのです。

激怒した孝明天皇は、水戸藩に向けて密命を下しました。これを戊午(ぼご密勅(みっちょくといいます。直弼さん暗殺の命があったとか…。

これに対し直弼さんは、抗議しに来た前水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあきさんや福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがくさん、さらには後の徳川将軍でもある一橋慶喜(ひとつばしよしのぶさんらを謹慎処分にし、幕府を批判する面々を弾圧していきました。「安政の大獄」ですね。

朝廷と幕府の関係悪化を恐れていた具視さんは、幕府側であった京都所司代(しょしだい酒井忠義(さかいただあきさんらと会談し調和を図ろうとしますが、このことが幕府寄りの姿勢とみなされ、後に自身の首を絞める事態となってしまうのです。

1860年3月、直弼さんが水戸脱藩浪士らの襲撃を受け、暗殺される事件が起こります。「桜田門外の変」です。

直弼さんがいなくなると、朝廷(公家)と幕府(武士)の関係修復を図ろうと公武(こうぶ合体」派が幕府内で盛り返していきます。

「公武合体」の対義語が、幕末の時代によく聞く尊王攘夷(そんのうじょういですね。

佐幕派とみなされ、尊攘派から敵視されて失脚へ!

尊王攘夷運動が活発になり権威が地に落ちてしまった幕府は、孝明天皇の妹・和宮(かずのみやさんと徳川14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもちさんとの降嫁(こうかに頼るしか、幕府盛り返しの打開策が無くなってしまうのです。

降嫁とは、王女などが王族以外の男性へと嫁ぐことです。いわゆる政略結婚ですね。

既に和宮さんは輿入れが決まっていたため拒否していましたが、具視さんの意見である

「幕府が不平等条約を破棄させ、攘夷を実行し鎖国体制に戻すなら降嫁を認める。」とし、

幕府は「10年以内に鎖国体制へ復帰させる。」と返答したため、和宮さんの降嫁が実現しました。

孝明天皇は、幕府が10年以内に行動を起こさなければ自ら公家や大名を率いて攘夷を行うと宣言したことや、さらに安政の大獄で処分された人々の復帰を幕府に命令したこともあり、各地で尊王攘夷運動はさらに高まりを見せていったのです。

具視さんは、朝廷のために尽力していたはずだったのですが、京都所司代・酒井さんと親しかったことや和宮降嫁に賛成していたことが重なり尊王派の志士たちから佐幕派の人物であるとみなされるようになっていました。

さらには孝明天皇にまで疑われ蟄居処分、朝廷を去り出家してしまうのです。

しかし、攘夷強行派の志士らは処分がまだまだ甘いと主張、京都から退去しなければ首を晒すとまで言われてしまいます。嫌われ具合がひどかったようですね。

そして、1867年11月までの5年間、京都市街地の北にある洛北(らくほくの岩倉村で蟄居生活を送ることになるのです。

明治新政府の立ち上げ!

孝明天皇の暗殺?

蟄居生活に入ってから2年後の40歳頃、前年に起きた事件「八月十八日の政変」で京都を追放されていた長州藩が再度、武力衝突事件を起こします。「禁門の変」です。

これにより攘夷強行派は一掃され、佐幕派が盛り返してきますが、具視さんは蟄居処分のままでした。

1865年の41歳頃より、西郷隆盛(さいごうたかもりさんや大久保利通(おおくぼとしみちさんの薩摩藩や朝廷の同士らと連絡を取るようになり政治復帰を考えるようになります。「公武合体派」の立場を「倒幕派」へと変えたのもこの頃からでした。

朝廷と幕府は「朝敵」となっていた長州藩に向けて「長州征伐」を開始します。

しかし、「第二次長州征伐」で幕府軍は苦戦を強いられ、さらに大将であった将軍・家茂さんが突如亡くなってしまうという不運も重なります。

具視さんや薩摩藩は、長州藩との和解をすべきと主張しますが朝廷や幕府首脳部はこれを退け征伐続行を進めます。

このことに激しく批判した具視さんらは、以前に似た事件でもある「二十二卿列参事件」で意見しました。具視さんは蟄居中のため未参加。

これに激怒した孝明天皇は、列参に参加したものらを処分します。

しかしこの直後、孝明天皇が天然痘を原因で亡くなってしまうのですが、タイミングの良さなどから具視さんの毒殺説が疑われているのです。

王政復古の大号令!

孝明天皇が亡くなり、15歳の若さで明治天皇が即位します。

1867年10月、15代将軍・徳川慶喜さんが大政奉還(たいせいほうかんを行い鎌倉幕府より続いた武家政権が朝廷へと返されました。

しかし、政権が返されても朝廷首脳部は慶喜さんの言いなりであり、実質的権力は幕府に戻りつつありました。

11月に復帰した具視さんはこのことを危惧し、朝廷首脳部、薩摩藩、土佐藩、福井藩ら大名と王政復古(おうせいふっこの大号令」を発し、幕府を廃止して新政府を立ち上げたのです。

明治元年に入ると、慶喜さんが突如京都占領を目的とした出兵を開始。具視さんが徳川征伐を決したことにより新政府軍vs旧幕府軍との戊辰(ぼしん戦争」が開戦しました。

具視さんは、集められた大名たちの前で、

「帰国したいものは帰国せよ!勤王の意思がある者だけ誓書せよ!」

この発言に皆が震え上がり、全員が誓書したといいます。

条約改正のための岩倉使節団!

明治新政府では、アメリカの政治制度を参考に再編が行われ、具視さんは京での実質的な中心となり、非難されながらも「幕府を倒すだけではなく、公家社会も一新しなければならない!」とし改革を推し進めます。

版籍奉還(はんせきほうかん」「廃藩置県(はいはんちけんを実施し、藩が所有していた土地と人民を朝廷に変換、その「藩」も廃止し「県」とする一大改革を行います。

日本には、かつて幕府が結んだ不平等条約の問題がありました。

アメリカとの間に1872年(明治5年)7月まで交渉は出来ないという取り決めがされており、その期日が切れるところまで来ていました。

しかし、アメリカはまだまだ日本の法律や制度が整っていないことを理由に不平等条約を維持してくる可能性がありました。

具視さんは、欧米に使節団を送り、外国の近代化を日本に導入し文明開化を成し遂げてから条約交渉すべきと考えます。

そして、明治4年から1年10ヶ月にわたり諸国を巡りました。

この回遊中で、具視さんは自身の想像をはるかに超えている欧米諸国の近代化にショックを受け、条約改正どころではなく留学が目的へと変わっていきます。

具視さんは(まげは日本人の魂である!」と考え、髷に和服姿でしたが、それどころではなくなったのでしょう、アメリカで断髪しております。

帰国後、繁栄には鉄道が不可欠とし、日本鉄道会社の設立に尽力したのです。

東北本線や山手線など、現在のJR東日本へと受け継がれております。

喉頭癌で死去!

明治6年、朝鮮との開国問題で西郷隆盛さんらと対立、これにより西郷さんと官僚600人が一斉に辞職してしまった事件が起こりました。

この頃より、元武士である士族たちの反乱が各地で起こるようになり、明治10年、西郷さんも「西南戦争」で亡くなってしまいました。

さらに明治11年には、大久保利通さんも不平士族に襲われ暗殺されしまったのです。

明治13年頃より、憲法制定の必要性を考えるようになり、大久保さん亡き後、具視さんを支えていた伊藤博文(いとうひろぶみさんにそれを任せることとなります。

伊藤さんは初代内閣総理大臣としても有名ですね。英語が話せるから抜擢されたというのは本当の話。

そして明治23年、アジア初の近代憲法「大日本帝国憲法」が施行されました。

現在の「日本国憲法」が施行されるまでの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかったのです。完璧だったんですね。

具視さんは、憲法の制定を見ることは叶わず、明治16年、明治天皇の見舞いを受けながら喉頭癌により59歳の生涯を閉じました

日本初の癌告知だったそうです。

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