2024年に新紙幣が発行されるのに伴い、肖像画の偉人のみなさんもNew Faceとなります。
「千円札の偉人たち」第2回の今回は、伊藤博文さんを紹介していきますよ。
※歴史上のことなので諸説あります。
第1回のヤマトタケルさんと聖徳太子さんについてはこちらからどうぞ!
この記事のあらすじ
伊藤博文とは、坂本竜馬(さかもとりょうま)らと同時代を生きた幕末の志士!
相次ぐ偽札事件により新紙幣発行へ!
1963年11月に発行開始された伊藤博文さんの千円札ですが、その理由として、聖徳太子さんの旧千円札の偽札事件が多発したためでありました。
そして最後の決め手となったのは、警察コードで千円札を意味する「チ」、千円札の37番目の偽札事件ということで命名された「チ-37号事件」が起こったことにあります。こうみると結構な頻度で偽札事件は起こっていたのですね。
「チ-37号事件」とは、1961年に秋田県で偽の千円札が発見されると、わずか2年の間で全国から343枚の偽札が発見されました。
今回の偽札は本物と比べれば手触りや厚さにわずかな違いがあったものの、それだけを手に取ったとしたらまず判別は難しいとされるほど精巧な作りでした。
犯人らしき人物は何度も目撃されているにも関わらず、新紙幣へと変更されたことにより、犯人逮捕とならず時効が成立してしまったのです。
この事件は、「日本の偽札史上、最高の芸術品」とまで言われているのです。
伊藤博文とはどんなお方?
1841年、周防国(現・山口県)で百姓である父の長男として誕生。分かり易いところで言えば長州藩です。
百姓から天下人となった戦国武将・豊臣秀吉さんに似た生い立ちですね。伊藤さんものちに総理大臣にまで上りつめています。
「伊藤博文」とは諱と呼ばれるいわゆる本名でして、この頃は本名を名乗らない時代でありましたので、「利助」「俊輔」と名乗っていました。
13歳頃、家が貧しかったため、父は足軽の伊藤家に養子に入ります。
名前も「伊藤」となりました。元々は「林さん」なんです。
長州藩と言えば、吉田松陰さんとこの方の塾である「松下村塾」が有名です。
幕末に活躍した長州藩士たちは皆、この塾の出身であると言っても過言ではないくらいなんです。
伊藤さんもこの塾の出身なのですが、身分が低かったために外で立ったまま聴講していたといいます。別にいじめられていたからではなく自らですよ。
18歳頃、江戸幕府の大老・井伊直弼さんによる「安政の大獄」の犠牲により、師・吉田松陰さんが斬首されてしまうと、伊藤さんら長州藩士は尊王攘夷運動に活発になっていきます。
22歳頃には、海外渡航を決意し、藩命によるイギリス留学の5人に選ばれました。
イギリスでは英語を学びながら海軍施設、工場などの見学をし日本との国力の差を目の当たりにしています。
ロンドン大学には、「長州ファイブ」として顕彰碑が建てられているのです。
しかし、イギリスに到着してわずか半年足らずで、長州藩に危機が迫っていることを知ると急ぎ帰国することになります。
帰国した伊藤さんは戦争の回避に尽力しますが、「下関戦争」で長州藩はなんと米英仏蘭4国連合艦隊から攻められる形になってしまったのです。
和平交渉を任された長州藩士たちのリーダー格でる高杉晋作さんの通訳として交渉を成功させています。
この2人の関係は深く、朝廷や幕府からの「長州征伐」に恭順を見せていた長州藩に対し、クーデターを起こそうとした高杉さんの下に一番に駆け付けたのも伊藤さんでありました。
「人生で唯一誇れることは、あの時、高杉さんの下に一番に駆け付けたことだろう」
後に伊藤さんはこう語っています。
初代総理大臣となる明治時代!
英語により着々と出世の道へ!
26歳頃、江戸幕府は政権を朝廷へ返上、約670年続いた武士の世が終わりを告げます。これが「大政奉還」です。
さらに1ヶ月後の「王政復古」により江戸幕府の滅亡、新政府の樹立、そしてこれが引き金となり、旧幕府軍vs新政府軍の対立である「戊辰戦争」が起こりました。
実はこの頃の伊藤さんは、外国商人や他藩との武器購入などの交渉がおもな仕事であり、表立った活躍を見せていませんでした。英語が話せることが逆に裏目になっていましたね。
しかし、そんな暇を持て余していた伊藤さんの力が発揮出来る事件が起こります。
戊辰戦争が開戦した同時期、神戸と大阪で日本人による外国人殺傷事件が起きたのです。
どちらの事件も外国人の無礼な行為に日本側が止めに入りますが、言葉が通じず最悪の結末となったというものです。
問題を起こした当事者たちが切腹をする事で解決を見せましたが、この事が外国人に切腹を印象付けることになります。
これらの事件の解決に奔走した伊藤さんは、当時の外国事務総裁(現・外務大臣)の目に留まり、それを出世の足掛かりとし、そして明治維新後の新政府では英語の堪能さを買われさまざまな要職を歴任していくことになります。英語を話せることは昔も今も最大のスペックなんですね。
初代内閣総理大臣就任!
明治4年、諸外国との不平等条約改正や西洋文明の調査などを目的とした「岩倉使節団」に参加し渡米、サンフランシスコで演説も行いました。
これ以外にも何度も外国へ渡り、学んできたことを明治政府で活かしていきます。
幕末、明治維新で活躍した「維新の三傑」である木戸孝允さん、西郷隆盛さん、大久保利通さんが相次いで亡くなると、明治政府指導者として力を発揮していくようになります。
41歳頃の明治15年、憲法調査のためにドイツへと渡ります。そこで歴史法学や行政について学び、帰国後、現在まで続く内閣制度を創設、アジア初であった近代憲法の制定を進めていきます。
3年後、内閣制度が開始されると、誰が初代内閣総理大臣となるかに注目が集まります。
当時の最高職であった太政大臣として政府のトップにいた三条実美さんが有力とされていました。実美さんは公家の家格でも上位である三条家の生まれで身分は最高、一方、伊藤さんは事実上政府を動かしていた立場でしたが農民の出という低い身分でした。
しかし、総理大臣を決める会議の場で、伊藤さんの盟友が、
「これからの総理は英語が読めなければだめだ!」
と口火を切ると皆が賛同し、伊藤さんは初代内閣総理大臣となったのです。ここでも英語の力が発揮されたというわけですね。
中国での暗殺!
内閣総理大臣になってからは、憲法発布のために奔走、そして「大日本帝国憲法」は明治22年2月に公布され、23年11月に施行されました。
現在の「日本国憲法」が施行されるまでの半世紀以上一度も改正されることなく存続したのです。
伊藤さんは、初代内閣総理大臣とさらに5代、7代、10代と4度の総理大臣を務めました。
第2次伊藤内閣の時に「日清戦争」が、第4次内閣辞任より3年後に「日露戦争」が勃発しています。どちらも日本が勝利を治めますが、両国との戦後処理に奔走します。
65歳頃の明治38年、韓国(大韓帝国)の統治権を掌握した日本は韓国統監府を設置すると、伊藤さんは初代統監に就任しました。
条約に基づけば、日本が韓国を併合して支配下に置いたとするが、伊藤さんはこれに否定的な考えを持っており、あくまでも保護国であるとしていました。
韓国に赴任した日本人教師たちにも、「誠実と親切を持って児童を教育し、宗教は韓国民の自由であり、朝鮮語も学ぶ事。」と諭していました。
記者の前でも、「日本は韓国を合併する必要はない!」と演説しています。
しかし、4年後の10月、ロシアと朝鮮問題について極秘に話し合うために訪れた中国のハルビン駅で、韓国の運動家の手によって射殺されてしまったのです。
自分を撃ったのが朝鮮人だと知らされると、
「俺を撃って、馬鹿な奴だ…。」と呟いたのです。
これにはどのような思いがあったのでしょうか。
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