明治維新でもっとも活躍した10人を「維新の十傑」と呼びました。
幕府が無くなり、政権が朝廷に返されると、日本は新政府が立ち上がり明治の世となります。
外国文化がふんだんに取り入れられ、藩が県へと変わり、武士がいなくなり全てが平等といった時代。
良いこと尽くめといったように感じますが、やはり新しいことをしようとするとそれに対し反感を持つ人たちも出てきますよね。
元武士である士族の反乱や重鎮の暗殺などが起こってしまうのです。
「維新の十傑」の皆さんも、明治10年頃にはほとんどが暗殺、反乱、病気などで亡くなっています。
ということで、第3回「維新の十傑、初期には皆が亡くなっていた!?」
それではまいりましょう。
※歴史上の事なので諸説あります。
この記事のあらすじ
西郷、大久保、木戸らと同等の活躍を見せた、広沢真臣(ひろさわさねおみ)!
1834年、長州藩士・柏村家の4男として誕生。同郷、同年には共に維新の十傑である木戸孝允さんと前原一誠さんがいます。
長州藩は、「禁門の変」、「長州征伐」などなど幕府や朝廷から敵と見なされ危機的状況にありました。
藩内でも「改革派」と「保守派」に二分されており、常に主導権を争っている状態でした。吉田松陰さんや桂小五郎(のちの木戸孝允)さん、高杉晋作さんらといった有名な方たちは改革派に属していました。
広沢さんはと言うと、どちらにも属さない「中間派」の立場を保つようなお方であり、交渉に長け、間を取り持つ事に優れた人物でした。
幕府の勝海舟さんや坂本龍馬さん、当時は敵同士でもあった薩摩藩とも上手に交渉しています。
過激で知られた長州藩の中で、逆に目立つような存在でした。
西郷隆盛さんや大久保利通さんに匹敵するほどの人物でありますが、名前を知る人はあまり多くないですよね。
明治2年、明治維新の功を称えた賞典禄1800石を賜っています。これは木戸さんや大久保さんと同等になります。どのくらい凄い方なのかが分かりますね。
明治政府では「参議」などの役職で活躍しますが、明治4年、東京富士見町の私邸で宴会を終えた後の深夜に刺客に襲われ暗殺されてしまったのです。享年39歳。
しかし、実行者や黒幕が不明であり、今現在も未解決事件とされているのです。
当時に多く起こっていた、新政府に対する不満を持つ士族らや旧幕府の残党によるものとされています。
中には、折り合いの悪かった木戸さんや大久保さんが黒幕であったのではないかという説もあるんです。
「江戸」を「東京」と改称させた、江藤新平(えとうしんぺい)!
1834年、肥前国(現・佐賀)で下級武士の家で誕生。
藩校では成績優秀であったが、父が職務怠慢により蟄居となり生活は苦しくなりました。
そのため進学せずに、佐賀藩の尊王派の中心的存在でもあった枝吉神陽さんの私塾で学んでいます。
28歳頃、脱藩して京都で活動しているときに長州藩士・桂小五郎さんらと出会っています。
2ヶ月後に帰郷すると脱藩の罪を問われますが、普通であれば死罪であるところを新平さんを高く評価していた藩主・鍋島直正さんの判決で蟄居に罪を軽減されたのです。
その後、15代将軍・徳川慶喜さんが「大政奉還」を行い江戸幕府が消滅、薩摩藩と長州藩、そして公家の岩倉具視さんが「王政復古の大号令」を発し新政府が誕生すると、佐賀藩もこれに参加、新平さんも蟄居を解かれ京都へと派遣されました。
旧幕府軍との戦い「戊辰戦争」では、東征大総督府軍監に任命。いわゆる旧幕府軍を制圧する隊ですね。
同じ維新の十傑の1人である大村益次郎さんとともに、旧幕府軍の彰義隊を上野戦争でアームストロング砲を使いわずか1日で殲滅しています。
明治2年、功により賞典禄100石を賜っています。
新政府での活躍は数知れず、
「1000年以上も天皇の目が行き届かなかった東日本を治めるために江戸を東京とし、のちに東京と京都を鉄道で結ぶ」
といった意見が通り、明治天皇が江戸へと赴き、江戸は東京へと改称されました。
そして数々の役職を歴任し、「学制」の基礎固め、「警察制度」の整備、「四民平等」、さらには「司法制度」の整備でも功績を残しています。
しかし、真面目な性格からか政府内での確執が多く、さらには明治3年12月に虎ノ門で佐賀藩士に襲撃されて負傷する事件が起きています。
明治6年に起こった「明治6年政変」では官僚約600名が一斉に辞職してしまいます。
その中には、新平さんや西郷隆盛さんなど明治維新で活躍した者たちの名前も数多くあったのです。
政府内で、新平さんと維新の十傑の1人である大久保利通さんとは犬猿の仲にありました。
お互い頭の切れるクールな性格であったため互いを敵視していたのでしょう。
佐賀へと帰郷した新平さんに対し、待っていました張りに大久保さんは「佐賀追討令」を受けています。
そして明治7年、ここに士族の反乱である「佐賀の乱」が勃発したのです。
佐賀軍は政府軍の激しい火力の前に敗走、新平さんも鹿児島の西郷さんの下へ加勢を求めに行きますが断られてしまいます。
その後、高知にも訪れますがここでも加勢を断られます。
そして、この地で新平さんの手配写真が出回っていたため捕らえられてしまうのです。
皮肉にも、この「写真手配制度」は新平さん自身が確立したものでした。
佐賀に戻された新平さんは、梟首の刑となり処刑されてしまったのです。享年40歳。
「新平さんの墓に参拝すれば災いが去る」と、参拝客が絶えなかったと言います。
民衆からの人望が伺えますね。
坂本龍馬に影響を与えた、横井小楠(よこいしょうなん)!
1809年、肥後国(現・熊本)で熊本藩士の横井家で誕生。
横井家の祖先は、鎌倉幕府の執権でも知られる北条氏の一族であり、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝さんの妻である北条政子さんの血流ということになりますね。
小楠さんの諱は「平時存」で、北条家の「通字」である「時」を入れており、さらには平氏でもありました。
小楠さんの着物には北条家の家紋が施されております。
自宅の一室で私塾を開くと多くの門弟を輩出、坂本龍馬さんや吉田松陰さんら数多くの有名な方も訪れています。
その中に福井藩士の者が学んでおり、この事がきっかけで、福井藩主・松平春嶽さんの目に留まり政治顧問にと迎えられます。
明治に入ると新政府からの呼び出しにより、「参与」という官職で参加することになります。
しかし翌年の明治2年1月5日午後、京都にて6人組の刺客に襲撃され亡くなってしまうのです。享年61歳。
襲撃理由は、開国派であった小楠さんがキリスト教を日本に広めようとしているといった理由からでした。しかし、実際はキリスト教と仏教間の争いを懸念していたのです。
旧500円紙幣の肖像、岩倉具視(いわくらともみ)!
岩倉具視さんは、公家出身のお方で、維新の十傑の中で一番長く生き続けた方です。
明治16年、57歳で喉頭癌のため亡くなっています。日本で初めての癌告知でした。
明治新政府では、「岩倉使節団」を結成し1年10ヶ月にわたり欧米諸国を巡っています。
当初の目的は不平等条約の改正でしたが、各国の文明に衝撃を受けて帰国することとなります。
岩倉さんは「日本の繁栄には鉄道が不可欠!」と考え、日本鉄道会社の設立に携わっています。
山手線、東北本線、常磐線や新宿駅、上野駅、青森駅など現在のJR東日本にそれらが受け継がれているのです。
上野には「岩倉鉄道学校」があり、校章は岩倉家の家紋と鉄道レールを組み合わせたデザインなんです。
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