【維新の十傑】 明治維新の立役者10人!明治初期には皆が亡くなっている?(その2)

江戸の世からから明治へと変わり、文明が開化された時代。

日本最大の変革期に活躍した10人を「維新の十傑(じゅっけつと呼びました。

前回は、その中でもさらに選りすぐりの3人「維新の三傑」を紹介しました。

誰しもが聞いたことがあるでしょう西郷隆盛(さいごうたかもりさん、大久保利通(おおくぼとしみちさん、木戸孝允(きどたかよしさんです。

この3人は、明治10年、11年に戦争、病気、暗殺と相次いで亡くなってしまいます。

実はそれ以前に他の「維新の十傑」の皆さんも亡くなっているのです。

事を成すことは、誰かの犠牲の上に立ち、自分の身を削るというとても大変な事だということなのでしょう。

第2回「維新の十傑、初期には皆が亡くなっていた!?」

それではまいりましょう。

※歴史上の事なので諸説あります。

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「薩摩の小松か、小松の薩摩か」人望厚き小松帯刀(こまつたてわき

1835年喜入(きいれ領主・肝付(きもつき家の4男として誕生。身分は高いです。

13歳頃から学問の才覚を発覚しますが、虚弱体質や昼夜問わず勉学に励んだため、病に伏せるようになる青年時代でした。

22歳頃吉利(よしとし領主・小松家の養子となり家督を相続。実家とは同じ位の身分です。

薩摩藩主の父である島津久光(しまづひさみつさんの側役に抜擢。

帯刀さんは、西郷隆盛さんや大久保利通さんの上司にあたり、薩摩藩のリーダー的存在であるこの2人が自由に動き回れたのも帯刀さんの人脈、人望などがあったからと言われていますね。

幕末に起こった有名な出来事のほとんどに帯刀さんが関わっていたのだそう。

同い年であった坂本龍馬(さかもとりょうまさんとも親友関係にあり、亀山社中(かめやましゃちゅう(のちの海援隊(かいえんたい)設立の援助や、薩長同盟(さっちょうどうめい締結の場所は帯刀さんの京都の屋敷で行われたのです。

日本初の新婚旅行は龍馬さん夫妻というのが有名な話なのですが、その10年も前に帯刀さん夫妻が既に行っていたといいます。帯刀さんが龍馬さんに「行ったら?」とアドバイスしたとか…。

明治2年、明治維新の功労により賞典禄(しょうてんろく1000石を賜ります。この賞の最高は、鹿児島藩主父子と山口藩主父子の10万石で、「維新の十傑」の最高は西郷さんへの2000石でした。

新政府では、総裁局顧問参与(さんよ外国官副知官事などなどちょっと難しい要職を歴任しております。

しかし、帯刀さんは「足痛」「胸痛」「肺病」といった病状を患っており、さらに左下腹部の腫瘍の悪化が最悪のものとなり大阪で療養していましたが、ついに明治3年7月に病死してしまったのです。享年34歳

日本陸軍の創始者、大村益次郎(おおむらますじろう

1824年周防国(すおうのくに(現・山口)の村の村医の長男として誕生。

10代の頃から、医学、蘭学、さらには算術、習字なども学んでいます。

1853年、ペリー率いる黒船が来航すると、蘭学者が必要とされる時代となり、益次郎さんは宇和島藩(現・愛媛)や長崎、さらには江戸に赴き蘭学、兵学、医学などを教えています。

益次郎さんは、1万円札で有名な福沢諭吉(ふくざわゆきちさんとも知り合いで、仲が悪い関係だったとか。

江戸で、長州藩のリーダーであった桂小五郎(かつらこごろうさん(のちの木戸孝允)と知り合うと、益次郎さんは長州藩士として倒幕へと向かって行きます。

(はぎ(現・山口県萩市)へ戻ると、西洋兵学の講義や製鉄所建設などの軍備関係の仕事を行っています。この頃、「火吹き達磨(だるまなんていう仇名を付けられていました。どういうお方?

幕府との「長州征伐」での戦いでも、高杉晋作(たかすぎしんさくさんが創設した奇兵隊(きへいたいの指導を任されています。兵法に絶対の信頼が置かれていたのが分かりますね。

明治新政府が立ち上がると、旧幕府軍との戦闘である戊辰(ぼしん戦争」でも活躍します。

西郷さんと幕臣であった勝海舟(かつかいしゅうさんによる「江戸城無血開城」が成功しますが、旧幕府軍の残党が江戸で不穏な動きをみせていました。

そんな状況で白羽の矢が向けられたのが益次郎さんでした。

益次郎さんは討伐軍を指揮し、上野に潜んでいた旧幕府軍をわずか1日で鎮圧してみせたのです。

大村益次郎の名を世間に知らしめるきっかけとなった戦いでした。

この時の作戦会議で、西郷さんとも旧知であった薩摩の海江田信義(かいえだのぶよしさんは、益次郎さんの「君は戦を知らぬ!」という言葉に激昂、のちに起こる益次郎さん暗殺事件に関与したのではないかと疑われてしまうほどなのです。

益次郎さんの人間性が垣間見える出来事ですね。

明治2年、功労により賞典禄1500石を賜ります。

新政府の幹部となり軍制改革の中心を担い、数年後に実施された廃刀令(はいとうれい徴兵令(ちょうへいれいなどを構想に描いていたのです。

さらには、「今後注意すべきは西である!」と予見しており、明治10年に西郷さんをリーダーとし起こった士族の反乱「西南戦争」を見越していたかのような発言を残しているのです。事実、益次郎さんは西郷さんをそこまで信用していなかったと言います。

益次郎さんは軍事施設の視察などを理由に大阪方面へ出張を決めますが、そんな中、以前にいざこざのあった海江田さんが不平を持つ士族らを使って益次郎さんを襲う計画があるという噂が流れていました。木戸さんらも危険性を心配していました。

そして、視察、検分を終えた益次郎さんは京都の旅館で会食中、元長州藩士8人の刺客に襲われ重傷をおったのです。

一命はとりとめたものの左足切断手術を受けるほどの重傷で、襲撃から2ヶ月後に亡くなってしまったのです。享年45歳。

吉田松陰に学ぶ!前原一誠(まえばらいっせい

1834年長門国(ながとのくに(現・山口)で長州藩士の父の下で誕生。

23歳頃久坂玄瑞(くさかげんずいさんや高杉晋作さんらと共に吉田松陰(よしだしょういんさんの松下村塾(しょうかそんじゅくに入門。

幕末、明治で活躍した長州藩士たちのほとんどは松陰さんから学んでいると言っても過言ではありません。しかし、金銭面から前原さんが松陰さんから学んだのは10日ほどでした。

久坂さんと高杉さんで「松下村塾の双璧」と呼ばれていたものの、松陰さんは「前原の誠実さと人格はこの2人を上回る」と評価していたんです。

しかし、この真面目さが明治政府での悲劇へと変わってしまうのです。

前原さんはこの後も、長州藩士として「長州征伐」「戊辰戦争」などで活躍を見せ、明治3年、賞典禄600石を賜ります。

明治政府では、越後府判事(現・新潟)や参議(さんぎなどを務めます。

しかし、大村益次郎さん死後の後任を任されますが、前原さんは益次郎さんの方針に反対していたので、同郷である木戸孝允さんや山縣有朋(やまがたありともさんらと対立するようになり、参議を辞め帰郷したのです。

明治9年、明治政府のあり方に不満を抱いていた前原さんは、同士200名を募り「萩の乱」を起こしました。

しかし、事前に察知していてた政府軍は即座にこれを鎮圧、前原さんは首謀者の罪に問われ斬首刑に処されてしまったのです。享年42歳。

前原さんは越後判事時代、水害で苦しむ民のために政府の許可無く大幅な減税に踏み切りました。

これに対し政府の面々は前原さんを非難したのです。

こういう出来事もあり、誠実で真面目だった前原さんには明治政府の在り方に我慢が出来なかったのでしょうね。

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