江戸時代から明治へと変わった、いわゆる文明が開化された幕末期。
ちょんまげが無くなりお洒落ヘアーへ。
着物から洋服へ。
そんな日本の一大変革期に尽力した10人がいました。
もちろんもっともっといますよ。
今回は「維新の十傑」と呼ばれた方々を簡単に紹介していきます。
しかも、この方々は明治初期にはほとんどが亡くなってしまっているのです。暗殺されてしまったり…
やはり新しい事の始まりは誰かの反感を買うものです。
この時は武士の方々でした。
刀を没収され、藩も無くなり、日本が一つとなると武士の皆さんの居場所が無くなってしまったんですね。
そして各地で反乱が…。
何かを成すには誰かの犠牲が必要なんですかね。
「維新の十傑、初期には皆が亡くなっていた!?」
それではまいりましょう。
※歴史上の事なので諸説あります。
上野の銅像で有名!西郷隆盛!
1828年、薩摩国(現・鹿児島)で下級藩士の家で誕生。
「維新の十傑」の1人である大久保利通さんとは子供の頃から同じ学問を学んだ幼馴染なんです。
西郷さんは、薩摩藩主・島津斉彬さんの下で働くようになりますが、大老・井伊直弼さんとの「将軍継嗣問題」に敗れると、「安政の大獄」の犠牲に…。
西郷さんは3度の結婚と2度もの流罪に合ったお方なんです。さらには自殺未遂も2回ほど…。
島流しから戻された西郷さんの活躍は皆がご存知の通りですね。
薩摩藩の宿敵であった長州藩との「薩長同盟」。
「大政奉還」が成されると、「王政復古」により新明治政府を樹立。
旧幕府軍との戦闘「戊辰戦争」内では、幕臣・勝海舟さんとの会合により、江戸城を無傷のまま開城させることにも成功しました。
明治政府では、最高機関である太政官の一つ「参議」、後には「陸軍大将」を務めましたが、朝鮮の開国問題で子供の頃からの親友・大久保さんらと対立、「明治6年政変」で政府を辞職し鹿児島へ帰郷しました。
鹿児島では、元武士らをまとめるために「私学校」での教育に専念していましたが、明治10年、その私学校の生徒らの暴動が引き金となり「西南戦争」が勃発。
リーダーとして参加しましたが、ついには敗れ、自刃してしまうのです。享年49歳。
明治政府のリーダー!大久保利通!
1830年、西郷隆盛さんと同じ薩摩国で誕生。西郷さんとは幼馴染ですね。
西郷さんは藩主・島津斉彬さんの下で働く中、大久保さんは次の藩主の父・島津久光さんに接近するようになります。久光さんは斉彬さんの異母弟に当たります。
久光さんの下で出世していく大久保さんは、西郷さんを奄美大島より連れ戻し、共に薩摩藩のリーダーとして倒幕、そして明治維新を成功させていきます。
明治政府では、「初代内務卿」を務め、明治18年に内閣総理大臣が誕生するまでは明治政界の事実上のリーダーという立場でした。
2年ほどの間、岩倉使節団の副使として諸国を外遊、帰国すると「留守政府」を任されていた西郷さんらと朝鮮問題で対立。
「明治6年政変」で西郷さんら官僚約600人を失脚。
「西南戦争」では京都で政府軍を指揮し、間接的に西郷さんと戦うことになってしまいます。
西郷さんの死を手紙で知らされると、柱に頭を打ち付け号泣したといいます。
その翌年の明治11年、東京の紀尾井坂にて明治政府に不満を持つ士族6名に暗殺されてしまうのです。享年47歳。
新選組に命を狙われるも生き延び明治維新で活躍!木戸孝允!
1833年、長門国(現・山口)で藩医の子として誕生。この頃の名前は「桂小五郎」です。
16歳頃、「諸君!狂いたまえ!」で有名な吉田松陰さんの下で兵学を学びます。歳は3歳ほどしか違わないのですが。
幕末、明治で活躍する長州藩の方々のほとんどがこの松陰さんの下で学んでいるというのだから驚きです。
江戸の三大道場の1つで免許皆伝を得て、わずか入門1年で塾頭になるほどの剣豪でもあります。
長州藩士たちのリーダーとして活動していくのですが、「池田屋事件」で新選組に攻め込まれ、さらに「禁門の変」では朝廷、幕府、薩摩藩らを敵に回してしまい長州藩は朝敵とみなされるようになってしまいます。「長州征伐」として攻められてしまうほどの危機でした。
そのため、桂さんは幕府、新選組から命を狙われるようになるのです。
この時代の武士は、敵に背を向けるは恥とされていましたが、桂さんは「逃げの小五郎」の異名を持つほど危険を察知してはその場から立ち去っていました。
「池田屋事件」でも、2階の屋根伝いで逃げたとも、一度は池田屋に来たが新選組が乗り込んで来る前に出ていたという話があります。
武士のプライドよりも事を成すには命がなければ始まらないという考えだったんでしょうね。実際に明治維新での活躍を見ればそれが正しかったということですからね。
西郷隆盛さんや大久保利通さんら宿敵・薩摩藩との「薩長同盟」を締結すると、長州藩は勢いを取り戻し倒幕、明治維新へと突き進んで行きました。
「木戸孝允」と名を変え、明治維新では数々の政策を打ち出し、西郷さん、大久保さんと並ぶ「維新の三傑」と評価されています。
しかし、岩倉使節団の副使として海外視察を行った帰国後に持病の脳発作が悪化、本格的に明治政府を取り仕切れなくなりました。
この頃に起こった、西郷さんらとの対立「明治6年政変」の心労が原因なのではとされています。
明治10年、西郷さんが「西南戦争」を引き起こすと木戸さんは自身が西郷軍討伐を希望しますが、反対され京都での指揮となります。
しかし、病状はさらに悪化、大久保さんの手を握りしめながら、
「西郷もいい加減にしないか…」
という言葉を残し亡くなりました。享年43歳。
まとめ
今回は、「維新の十傑」の中でもさらに「三傑」と称された3人を紹介しました。
宿敵関係にあった薩摩藩、長州藩のリーダーとして幕末を生き抜き、後にこの2大藩が手を組む事によって倒幕への勢いが高まりました。
その原動力となったのがこの3人ということでしょうか。
しかし、明治に入ると西郷さんと2人の考えが対立を引き起こし、悲しい結末になってしまいましたね。
新しい事を成すというのは本当に大変なことなんですね。
この3人の評価は、
「明治に入っても西郷さんや木戸さんは武士を抜け出せていなかった。大久保さんが本当の政治家だ。」
「明治初期の数多くの政策は木戸さんがいたから成せたものだ。」
などなど…
何が正解で何が間違っているというものではなく、皆が自分の正義に全力であったということですよね。
コメント