男子も女子もみんな大好き新選組。
アニメや漫画の題材にも数多く使われる新選組。
今回はその新選組を一躍有名組織にのし上げた事件。
「池田屋事件」にスポットを当てて、詳しく、そして分かり易く紹介していきます。
※歴史上の事なので諸説あります。
この記事のあらすじ
新選組、京都で誕生!
創設1863年-廃止1869年(明治2年) 池田屋事件は1864年に起こります。
活動は6-7年ほどなんです。思っていたほど短いですよね。
しかも、実際華々しく活躍していたのは3-4年だけなのです。
後半はずっと戦争で戦っています。
結成した理由は、江戸から京へと向かう「将軍の警護」、そして「京都の治安維持」を目的としその面々を幕府が募集、集められた者たちから京都で「新選組」が結成されました。
ほとんどが武士という身分に憧れる浪人や農民などの普通の人たち。
武士に憧れる人たちは新選組に入るしかなかったのです。
京都の治安を守る部隊が新選組の他にもう一つあり、のちに坂本龍馬さんを暗殺する部隊、「京都見廻組」です。龍馬暗殺はあくまで説なのですが。
京都見廻組は新選組と違い、偉い人の子供や親族で結成されているエリート集団。
住む場所など全ての部分で保障されていて、警備箇所も偉い人のお傍でした。
新選組はというと、歓楽街の警備です。危険と隣り合わせです。身分の差というのはこういうところにまで出てしまうのです。
新撰組が発足され1年ほど名を上げられずにもんもんとした状態の頃、「池田屋事件」は起こったのです。
池田屋事件が起きるまで!
幕府を倒そうと過激な浪士が多くいる長州藩(現・山口県)は、事件の前年に京から追放されていました。
その長州藩が勢力挽回と、ある計画を持って京に戻って来ているというのです。
新選組は長州藩のスパイで炭薪商枡屋を経営する古高俊太郎さんを捕らえます。
古高さんの拷問によって、「風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱で幕府のトップを暗殺、天皇を長州に連れ去る」という自白を手に入れたのです。
(新選組副長土方歳三さんの拷問内容はかなり痛々しいので愛をもって割愛しましょう。)
同日夜、長州藩、土佐藩(現・高知県)、肥後藩(現・熊本県)の浪士たちが古高さんの奪還と、計画実行の有無を決める会合がどこかで行われることを新選組は突き止めました。
池田屋事件全貌!
1864年6月5日PM8:00。
新選組は、上司である会津藩(現・福島県)の500人の応援部隊の到着を待ちます。
しかし、待てど一向に到着する気配はありません。
手柄を挙げたくいきり立っている新選組は、たった34人での捜索を開始ます。どの時代も上司は慎重派で、部下は行動派ですね。
局長・近藤勇隊10名、副長・土方歳三隊24名での捜索開始。土方隊が捜索する地域が本命と思われていたために人数多め。
当時の京の町は、道も狭く、明かりは提灯や家のろうそくのみという薄暗さ、かなり捜索は難航したのです。想像以上に暗かったと思われます。
そしてPM10:00。
近藤隊が旅館池田屋で浪士たちを発見。
会津藩を待てない近藤さんは何人の浪士がいるか分からない池田屋にわずか10人で攻め込むことを決定します。
屋内での戦闘になるので人数は関係ないという読みと、相手もこっちが何人いるか分からないであろうということで勝算はあると考えました。
池田屋は、奥行き30mほどの2階建ての長屋で、1階4室、2階7室の旅館。
現在の暦でいえば7月くらいですのでかなり蒸し暑く、さらに近藤さんは突入する際に真面目にも「御用改めでござる!」と叫んだため、2階奥にいた浪士たちは新選組に気付き明かりを消しました。部屋の中はもう真っ暗です。
そして池田屋にいた浪士の数は20人以上でした。
3人を入口、3人を裏口、そして江戸からの長い付き合いであった、沖田総司さん(20?)、永倉新八さん(25)、藤堂平助さん(20)そして近藤勇さん(29)の4人が池田屋内に突入します。
2階に近藤さんと沖田さんが駆け上り、1階に逃げてきた浪士を永倉さんと藤堂さんが相手取る作戦です。
土方隊が到着するまでの1時間余り4人だけで戦っていたのです。
しかも、結核の病気持ちだった沖田さんは途中で吐血し戦線離脱。
藤堂さんも油断し額当てを外したところを切られ戦線離脱。
近藤さんと永倉さんの2人のみとなってしまいます。
そして永倉さんも手を負傷。絶体絶命の大ピンチです。
裏口を守っていた3人のところに、2階から血相変えて浪士が逃げてきます。
その気迫に3人とも切られ1人は死亡。2人は重症となり1ヶ月後に亡くなっています。
戦況不利となったところで土方隊到着。形勢逆転となりました。
戦闘終了後に会津藩が到着。土方さんは手柄を横取りされないために一歩たりとも近づけさせませんでした。
この事件を機に、新選組は一躍有名となったのです。
池田屋事件が起こったことにより、幕府を倒そうとする逸材たちが多く命を落としたため、明治が来るのが1年遅れたと言われています。
その逆で、浪士を逆に刺激したために早まったという説もあります。どっち?
長州藩のリーダー桂小五郎(のちの明治政府のお偉いさんとなる木戸孝允)さんも池田屋にいましたが、新選組が乗り込んで来たときに一目散に屋根伝いに逃げたとも、早くに到着してしまったので一度帰ったために難を逃れたとも言われています。
「逃げの小五郎」という異名を持っていますからね。逃げるが勝ち。武士の世にそういう人もいたんですね。
その後の新選組!
御所の焼き討ちを未然に防いだということで、新選組は武士の身分に取り立てられます。エリートの仲間入りを果たしたのです。
30数人だった隊士も200人を超える大所帯となり、何番隊という役職もこの頃から付き始めます。
しかし、この時が新選組の一番キラキラしていた時期かもしれません。
その後、隊士の分裂、仲間の死、違反者の粛清。
そして江戸幕府がなくなった後は、旧幕府軍として京都から北海道函館市まで戦争を続けて行くのです。
新選組の雑学。
・新選組が着ている隊服
近藤勇さんが忠臣蔵の赤穂浪士の羽織を真似て作らせたもの。
新選組は白と浅葱色。赤穂浪士は白と黒。
浅葱色は武士が切腹の時に着る服の色なんです。
制作したのは現在の大丸。
池田屋事件後には既に着ていなく、その後は黒ずくめであったという説もあります。
・「誠」の文字の隊旗。
誠を尽くすという説と。近藤さんの実家の名から取ったという説があります。
制作したのは現在の高島屋。
・池田屋事件が起こった1864年にイギリスロンドンでは地下鉄が開通していました。
日本での地下鉄開通は63年後の昭和2年なんです。
刀を振り回していた時との差…。さっさと開国しておけばと思ってしまいますが、これは過ぎたから言えることですね。
・池田屋跡地はパチンコ屋や居酒屋になっている。
記念館とかになってほしかったなーと思うのは私だけ?
当時の戦闘の様子に思いを馳せたりしたいですよね。
まとめ
新選組を一躍有名にのし上げた事件「池田屋事件」。
武士になりたいという幕末の若者たちと、日本を変えたいという各藩の浪士たちが真剣にぶつかり合った事件でしたね。
明治時代まであとわずか。この出来事で早まったのか遅れたのか分かりませんが、誰が正義や悪ではなく、日本を思う気持ちはみんな一緒というわけです。大和魂。
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