「2024年に各紙幣が新しくなると発表されました。」
近年では20年ほどで変更になるようで、ということは現在の紙幣になって20年が経とうとしているのも驚きなのですが…。
そんな新しくなる紙幣たちですが、今回はその中でも一番高額な「一万円札の歴史」について紹介していきたいと思います。
一万円札と言えば、福沢諭吉さん!
この方こそ一万円札の顔!(それは当たり前なんですが)
一万円、別名「諭吉!」
イメージが定着してしまっていますよね。
それもそのはず、何を隠そう20年前の紙幣変更で、デザインの変更はあったものの肖像画は諭吉さんのまま変わらなかったのです。
ということは40年間もずっと一万円札は諭吉さんでありました。
これはもう一万円札は諭吉さんのものとなってしまっていても仕方ないのです。
可愛そうなのは、新しく諭吉さんの変わりを務めるお方です。
絶対、非難轟々は間違いなしです。
しかし、新しく一万円札の顔となる渋沢栄一さんとはどんなお方なのかを知れば、「一万円=栄一」となるのも遠い日ではないと思います。
ということで、新しく一万円札に選ばれた渋沢栄一さん、みんな大好き福沢諭吉さん、さらにもっと前の一万円札とは?
紹介していきたいと思います。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
みんな大好き一万円札の顔、福沢諭吉とは?
福沢諭吉の一万円札はいつから開始?
1984年11月1日から発行開始となり、千円札や五千円札は2004年の新券発行の際に肖像画も変更されましたが、唯一一万円札のみ肖像画が変わらず諭吉さんのままでした。
40年間も一万円札は諭吉さんということになりますね。
この時に肖像画が変わらなかった理由としては、諭吉さんの肖像画があまりにも偽造防止に適していたからなんです。ホクロとかホクロとか…。
そして、当時の総理大臣であった小泉純一郎さんが慶応義塾大学の出身であり、諭吉さんは慶応義塾大学の創設者であることから、以外の人物を選ぶことはありえないと大反対したとかしないとか。
福沢諭吉とはどんな人物?
1835年、大阪にあった中津藩(現・大分県)の蔵屋敷で、下級武士の子として誕生しました。
幕末で有名な坂本龍馬さんや西郷隆盛さんらと同年代のお方なのです。勝手なイメージで近年に活躍していたお方のように感じられますね。若い頃はもちろん丁髷でした。
19歳頃、長崎にてオランダ語を学びますが、23歳で江戸へオランダ語講師として赴くと、外国人は英語を話し自身が学んだオランダ語が一切通じないことに衝撃を受けます。
日本は鎖国によりオランダ語以外の本が入手困難であったため、諭吉さんは独学で英語の勉強を始めたのです。
この頃に開いた塾が、後の慶應義塾の基礎となり創立の年とされています。
25歳頃、幕府の軍艦・咸臨丸で渡米。
共に乗り合わせていた勝海舟さんとは晩年まで仲が良くなかったといいます。「咸臨」とは、互いに親しみ合うという意味であったのにw
帰国後、諭吉さんの初出版である単語集『増訂華英通語』を刊行。この中には、現代では一般的な「v」の発音を「ヴ」と表記する言葉が使われています。
さらに、欧州使節の派遣に翻訳として同行してヨーロッパ各国を視察しました。
この経験を『西洋事情』という著書にまとめています。内容は、政治、税、紙幣、会社、学校、新聞、病院、銀行、蒸気機関などなど多岐に渡って紹介しています。
明治に入ると、新政府からの出仕を求められましたがこれを辞退、以後も官職には就かず武士から平民となります。
33歳頃、自身の塾を当時の元号から取り「慶應義塾」と名付け教育活動に専念していくようになります。
ちなみに、諭吉さん著書で一番有名な『学問のすゝめ』。
冒頭の一節にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という当時の日本人の常識を否定したこの言葉は、諭吉さんの言葉ではなくアメリカの独立宣言からの翻訳であるようです。
渋沢栄一は「日本の父」?
2024年から一万円札の顔、渋沢栄一とはどんな人?
1840年、武蔵国(現・埼玉県)で富、勢力を持つ農家である豪農の家で誕生します。諭吉さんの5歳下ですね。
このような家柄により、商業的な才覚や合理主義思想に繫がったとされています。
青年時代は、神道無念流や北辰一刀流などの剣術に励み、一時は尊王攘夷の思想に目覚め倒幕の計画をたてますが従兄弟の説得により中止しています。
25歳頃、一橋慶喜さんに仕えるようになり、慶喜さんが徳川15代将軍となると幕臣へと出世し、ヨーロッパ各国へと渡航することとなります。
大政奉還により江戸幕府が無くなると帰国を命じられ、明治新政府で大蔵省へと抜擢されます。
明治6年に大蔵省を退官すると、日本最古の銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)を創設。
この他にも、多くの地方銀行設立を指導、さらに東京ガス、王子製紙、東京急行電鉄、帝国ホテル、サッポロビール、キリンなどジャンルを超えた500以上の企業の設立に関わっているのです。
これらの功績により「日本資本主義の父」と呼ばれているお方なのです。
ひげが無いために不採用?
1963年、千円札の新紙幣が発行されましたが、その肖像画を選ぶ際に初代内閣総理大臣である伊藤博文さんと最終選考まで争ったものの、「ひげが無いと偽造されてしまう」といった理由により選ばれませんでした。
しかし、60年の時を経て、最先端偽造防止技術を搭載し、金額では最高額の一万円札の顔に抜擢されることになったのです。
いつ採用されてもおかしくないお方であったのですね。
そういえば、諭吉さんもひげがないですね…。
最初の一万円札は「聖徳太子」!
当時では高額!?一万円札の始まり!
1958年12月1日から発行開始となり、支払停止日が1986年1月4日ですので、約17年間利用されていました。
現在では当たり前である一万円札ですが、当時の大卒初任給が1万3000円ほどであったため、高額紙幣発行の必要性に議論があったようです。
現在で言えば、拾万円札といったイメージになるのでしょうか。
日本歴史史上一番の有名人、聖徳太子とは?
最初に、聖徳太子という呼び名は彼の功績により後世の人々が称えて付けた呼び名であり、「厩戸皇子」が当時の名前です。同一人物として覚えるのには少し労力が要りますね。
574年、第31代・用明天皇の第二皇子として誕生。
第33代・推古天皇のもと、蘇我馬子さんと共に政治を行い、「冠位十二階」や「十七条憲法」などなど誰もが聞いたことがあるであろう偉業を達成していきます。
聖徳太子さんは実は存在していなかったとか、これだけの偉業を一人で行うには無理があるなどなど色々な説もありますが、日本歴史史上一番の有名人であることには変わりないですね。
まとめ
今回は、一万円の歴史について紹介しました。
やはりお札と言えば「福沢諭吉」さんというイメージが日本人にはあると思います。それが変わるとなると寂しい気持ちにもなりますが、変わることが新鮮であり始まりでもあります。元号も新しくなりましたし。
こういう歴史があったという捉え方の方が楽しいですよね。
過去には、五万円券や拾万円券の発行が検討されていたとか。歴史を知ると面白い。
現実になっていたら百万円の札束がペラペラになってしまいますね。
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