1582年6月、天下目前であった織田信長さんが家臣・明智光秀さんの謀反により自害。
誰もがご存知、「本能寺の変」ですね。
しかし、誰もが知っている事件なんですが、明智光秀さんの動機が誰も分からないという出来事なんですよね。
逆に動機があり過ぎて、積もり積もっての怨根説が有力でしょうか。
今では、豊臣秀吉さんや徳川家康さんなどの黒幕説なんてのもありますね。
ということで今回は、織田信長さんと明智光秀さんの間に何があったのかを紹介していきます。
江戸時代に書かれた史料も多いため逸話である可能性もあるのですが。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
信長さんに皆の前で叩かれた?
戦国武将・武田信玄さん亡き後の武田氏を滅亡させた「甲州征伐」。
信長さんらは、諏訪(長野県)の法華寺に着陣し、討伐に加わった多くの武将たちを呼んで論功行賞を行いました。
その席で、光秀さんは「我らが苦労した甲斐がありましたな」と安堵も含めた祝賀を述べたのです。
しかし、その発言に信長さんは大激怒!
「お前ごときに何の功があったのだ!」
名だたる武将たちが並ぶ前で、殴る蹴る、さらには欄干に頭を押さえ付けられるという辱めを受けたのです。
この話は、テレビでもよく見られるシーンですね。
この時の恨みが本能寺の変へと繋がっていくという。
なぜに皆の前でそんなに怒ることがあったのでしょうか。
家康さんの接待役を解任された!
徳川家康さんは「甲州征伐」の戦功ににより駿河国(現・静岡)を信長さんより与えられました。
そのことの礼も含めて、家康さんは信長さんの居城・安土城を訪れています。
そこで、家康さんの接待役を任されたのが光秀さんでした。
大役を任された光秀さんは大いに張り切り、献立から考えて用意したのですが、様子を見に来た信長さんに「この魚は腐っている!このあり様では家康の御馳走は務まるまい」と、接待役を解任させられてしまったのです。
ここでも光秀さんは信長さんに恥をかかされたのです。
この時の献立は「続群書類従」という書に載っているそうです。
確かに梅雨時ということもあり、海の幸を内陸の安土城まで腐らせずに運ぶのは無理があったのではと言われております。
逆に、「魚が腐っている」というのは、「毒を入れろ!」という意味で、光秀さんがそれに従わなかったために信長さんの怒りを買ってしまったとされる説もあるのです。
敵の領地への国替え?
徳川家康さんの接待役を解任された光秀さんは、中国地方の毛利攻めを行っていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)さんの援軍として出立を命じられます。
その際、「近江国の滋賀群(現・滋賀)と丹波国(現・京都中、兵庫北東、大阪北)を召し上げる。その代わりに中国の出雲国と石見国の2国を与える」と言われます。
しかし、この2国はまだ敵である毛利家の領地で、攻め取った分だけ領地にしていいぞという意味だったのです。
この話は、信憑性は薄く、事実ではなかったとされております。
もし事実であったとしても、領地が増えるといった話なので理不尽なものでもなかったとか。
天下をほのめかす歌を詠んだ?
毛利攻めの出陣の前に、光秀さんは京都の愛宕神社で連歌会を催します。
この時の光秀さんの句「ときは今 雨が下知る 五月かな」
この句の意味は、源氏の流れをくむ土岐氏一族である光秀さん自身の「とき」、雨が下知るは「天が下治る」、そして5月は平氏を倒すための戦いが起こった月であることから、「今私が、天下を治める時である」と解釈されるのです。
そして、この後に読まれた句「水上まさる 庭のまつ山」
水上まさるは「源氏が勝る」、庭は「朝廷」という意味で使われており、まつ山は「期待している」という意味になるのです。
これはただのこじ付けであるという見方もありますが、ちょっと面白いですよね。
光秀さんの母が磔に!?
本能寺の変の3年ほど前、丹波国の平定を任された光秀さんは丹波八上城城主・波多野秀治さん兄弟らの激しい抵抗にあいます。
波多野家の助命を約束する代わりに光秀さんの母を人質とすることで降伏へと導き、そして無事に丹波国、さらには丹後国(現・京都北)を平定させました。
信長さんは光秀さんの功績を絶賛し、領地の加増、近畿の大名らが光秀さんの家臣に配属されるなど「近畿官領」として任される地位になったのです。
しかし、命を約束されていた波多野兄弟と家臣たちは安土の信長さんの下へと送られると、なんと磔刑にされてしまったのです。
これを知った八上城の家臣たちは約束を破られたことに激怒し、光秀さんの母を磔にして殺害したのです。
このことの恨みが本能寺の変の動機ではないかとされています。
この話は、江戸時代に書かれた書物にさらに脚色されたものであるようです。光秀さんの恨みを大きいものにするための作り話とか。
実際は、八上城を1年以上の兵糧攻めで落城させ、波多野兄弟らも観念し磔刑にされたのが事実なのだそうです。
刀を喉元に突き付けられ酒を強要?
酒の宴の席で、光秀さんが小用で黙って退出しようとすると、
「如何に貴様どこへ行くのか?」と酔った信長さんに槍を首筋に突き付けられたという出来事がありました。
さらには、酒の飲めなかった光秀さんに対して、大きな盃に入った酒を強要され、
「この白刃を呑むか、酒を飲むか」とまたしても脇差を口元に突き付けられたのです。
しかし、信長さん自身が酒を飲まなかったお方らしく、酔って絡むといった話はあり得なかったそうなんです。
家臣の取り合い?
光秀さんの家臣で斎藤利三さんというお方がいました。
江戸幕府3代将軍・徳川家光さんの乳母で有名な春日局さんのお父さんです。
利三さんは元々は稲葉一鉄さというお方の家臣でした。
一鉄さんと喧嘩別れをしていた利三さんを光秀さんは高給で引き抜いたのです。
一鉄さんはこれに対し、利三さんを返せと信長さんに訴えました。
光秀さんは、「30万石の領地を与えられたとしても、私は栄光とは思いません。そんなことよりも、良き家臣を求めることが、全ては信長様のためにでございます。」
しかし、信長さんはこれに激怒し、光秀さんの髷を掴んで引きずり回したというのです。
これだけを見ると、光秀さんだけが良い人に感じるのですが…。
寺を焼き討ちに!
甲州征伐を成した後、恵林寺(山梨県)に逃げ込んだ武田側の者の引渡しを寺が拒否したため、恵林寺を焼き討ちにしたのです。
僧侶150人が殺され、住職・快川紹喜さんの辞世の句が有名な、
「心頭滅却すれば 火もまた涼し」なんですね。
今回も、この焼き討ちに光秀さんが反対し、信長さんに叩かれるといったやり取りがあったようです。
しかし、この焼き討ちを命じたのは信長さんの長男・織田信忠さんだったとか。
まとめ
今回は、
信長さんは光秀さんの行動そのもの全てが気に入らなかった感じがしますね。
それなのになぜ信長さんは光秀さんをずっと側に置いていたのか、そして光秀さんはなぜに信長さんの元を離れなかったのか?
動機は別のところにあったのでしょうか。
やはり黒幕の存在が!
確かなことは、
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