豊臣秀吉さんは後に天下を取りますが、百姓出身の彼は織田信長さんのおかげで出世していきます。
もちろん秀吉さんの努力もあったのですが、チャンスをくれたのは信長さんであります。
その大恩人の信長さんを秀吉さんは亡き者にしてしまうでしょうか?
今回は、「本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉?」について紹介していきたいと思います。
もし本当にそうなら、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は秀吉さんでしたよね?
※歴史上のことなので諸説あります。
本能寺の変の通説
織田信長さんは宿敵・武田信玄が病死した後、信玄の子・武田勝頼を倒し、武田家を滅亡させました。
天下統一まであと一歩のところまで来ていたのです。
そして、中国地方征伐をしていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)さんから援軍要請がかかります。
信長さんは明智光秀さんを先に行かせ、その後、自らも向かうつもりでいました。
1582年5月29日、信長さんは京都の本能寺に入ります。
信長さんは自身のお城から38点もの茶名器を運ばせています。信長さんはお茶が大好きなのです。
6月1日、公家や僧侶を40名ほど本能寺に招き茶会を開きます。そしてそのまま宴会へ。
その頃、明智光秀さんは1万3000人を率いて中国地方に向けて出陣します。
京都と西国への分岐点に到着すると、光秀さんは迷わず京都へ道を選び、まっすぐと進んでいったのです。
その道中、馬の沓(蹄鉄)を捨てさせ、足軽たちには14㎝ほどの小さい草履に履き替えさせます。これは戦闘準備を意味しています。
家臣たちの間では信長さんの命令で、その頃大阪にいた徳川家康を討つのだと思っていたらしいです。
そして突然、光秀さんの口から驚きの言葉が発せられました。
「今日から私は天下人となる!お前たちの出世は手柄次第だ!敵は本能寺にあり!!」
翌午前4時頃、本能寺を囲む光秀さんの軍勢。
信長さんの周りには20数人。(100人ちょっととも)
「是非に及ばず!」と信長さん。
四の五の言わずこの場を対応するという意味。冷静な信長さん。こうなることをどこかで予感していたのでしょうか?
この後はみなさんが知る結末となりました。
本能寺の変で最も得をしたのは?
最終的に得をしたものが犯人という説ですね。
実際、秀吉さんは本能寺の変の知らせをいち早く聞きつけ、京都に引き返し明智光秀さんを打ち取りました。
信長さんの家臣の中で頭一つ抜き出た状態となり、そのまま天下人へと上りつめたのです。
秀吉さんを犯人とする理由としては、信長さんに対する不要とも思える援軍要請なんです。
秀吉さんは中国地方での戦いで、決して危機的状況ではなかったのです。
この行動の裏には、事前に光秀さんの謀反の計画を公家の者たちから聞いており、光秀さんが軍勢を集めたとしても不自然ではない状況を作り出したのではないか。
光秀さんに信長さんを討ち取らせるために。
そしてやはり外せないのは、信長さんの悲報を聞いた後の素早い行動力ですね。
俗に言う「中国大返し」というやつなんですが。
まずは1日ほどで70㎞を走破!姫路城へ帰還します。
そして京都への道のり200㎞を10日間ほどで走り抜け、一番乗りで光秀さんと対峙することになります。日本史上屈指の大強行軍とされております。
走り抜けたのも速かったのですが、それ以前に戦の撤収が尋常じゃなく速かったのです。
事前に知っていなければ出来ない事ではないでしょうか?
秀吉の黒幕説はやはり難しい!?
信長さんに援軍要請をしたのは、危機的状況などという理由ではなく、手柄の独占をして信長さんに疑念を持たれるのを避けるという保身の意味があったともされています。
「とどめは先輩が!」的なやつですね。
本当は、秀吉さんは呼んでいなくて、信長さん自身が行くと決めたという話もあります。
良いとこ取り説です。
本能寺の変の直後、光秀さんの家臣が秀吉さんのお城に入り、秀吉さんの家族はみんな逃げ出しています。
このことにより2人の間に同盟はなかったとされる見方もあります。
撤収の速さも、実は信長さんを向かえる準備がそのまま功を奏しただけであるとも言われているのです。
しかも、最初の70㎞走破は異常な速さだが、200㎞を10日間は通常速度であるそうです。
まとめ
このようなことから推測するに、秀吉さん黒幕説は面白いですが、結構無理があるように思えますね。
秀吉さんの天下取りへの道は自らの力で切り開いていったものではないでしょうか。
本能寺の変は数多くの謎に包まれており、それだけに数多くの黒幕説があるのです。
徳川家康さんと一緒に江戸幕府をつくった天海さんは実は明智光秀さんと同一人物?っていう噂もありますから、「本能寺の変の黒幕は徳川家康だった!?」が有力説かもしれないですよ。
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