新選組の方たちは、ちゃんと結婚をしている人は多くありません。
忙し過ぎてそんな暇が無かったのか、はたまた、いつ自分が死んでしまうかもしれないという状況に毎日立たされていますから、妻は持てないというそんなイケメンな考えを持っている人たちが多かったのか。
しかし、妻はいませんが、みんな女性関係はたくさんありました。
副長の土方歳三さんにいたっては、「モテ過ぎて困る!」という手紙まで書いちゃってます。
そんな新選組の中で、十番隊組長・原田左之助さんは結婚しています。
町娘の「まさ」さんという女性です。ちゃんと恋愛をしていたんです。
新撰組が最後の戦争に向かった後も、左之助さんは途中で離脱し妻の元へ行こうとしていたとも言われております。
今回はそんな原田左之助さんの恋愛と、最後の時、さらには生存説について紹介していきます。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
原田左之助、簡単プロフィール
1840年に伊予松山藩(愛媛県)で生まれる。
10代の頃、武家奉公人の仕事をしていたが、上司と喧嘩して自ら切腹してしまう。
「腹を切る作法も知らぬくせに!」と怒鳴れてカッときたそう。これでどういう性格の方か一発で分かりますね。
傷は浅く命に別状は無かったですが。
大阪の道場にて、槍術の免許皆伝となります。
その後、江戸に出てのちの新選組局長・近藤勇さんの道場である試衛館の食客となりました。
その翌年、試衛館の面々と共に将軍護衛という任務で京都に上ります。
そして京都で「新選組」を結成しました。
新撰組では、十番隊組長という殿軍を任され、数々の有名な事件で大活躍を見せます。
その頃に、京の町娘・まささんと大恋愛をしていました。
愛妻家!原田左之助!!
原田左之助26歳、京の町娘まさ18歳。
武士と町娘という身分の違いはありますが、無事2人は夫婦になりました。
翌年には、「茂」と名付けた長男も誕生します。「茂」という名は、その時の将軍でもある江戸幕府14代・徳川家茂から取ったと言われております。
休みの日には、新選組屯所に子供を抱いて訪れ、子供の自慢をするようなとても家族を大事にしていたのです。
しかし、新選組という京都の治安を守る危険な立場にいる左之助さん、いつかこの幸せな時が無くなってしまうかもしれないという不安がずっとあったと思います。
案の定、2人の結婚生活は2年半という短いものでした。
新撰組の最後、戊辰戦争開戦!!
坂本龍馬さんの活躍もあり、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は「大政奉還」で政治を朝廷に返します。
これにより、戦争は回避されたかに思えましたが、「坂本龍馬暗殺」、そして武力により江戸幕府を倒したい薩摩藩、長州藩は朝廷を掌握し「王政復古の大号令」により、幕府廃止と新体制樹立を宣言しました。
幕府側であった新選組、そして原田左之助さんは戊辰戦争、その初戦でもある「鳥羽・伏見の戦い」へ赴くことになったのです。
妻と子との別れ。
左之助さんは、まささんと茂に別れを告げます。
「必ず戻って来る!」と伝えたのでしょうか?
実はまささんのお腹には、2人目の子を身籠っており、今日明日にも生まれそうな状態だったのです。
20歳を過ぎたくらいのまだ若いまささん、どれほど不安だったことでしょう。
左之助さんもそんな2人、そしてお腹の中の新しい子をこの先も守って行きたかったはずです。
けれど、自分は新選組隊士、しかも組長を任せられる身、身を切る思いで別れを告げたのだと思います。
新撰組の敗戦!
新撰組は「鳥羽・伏見の戦い」で敗戦してしまい、江戸へと敗走します。京からどんどん遠ざかってしまうのです。
新撰組は、「甲陽鎮撫隊」と名を変え、甲州へと向かいました。
しかし、敵軍との兵力の差は歴然で、わずか1日の交戦で壊滅状態になってしまうのです。
この時、左之助さんは長きに渡り行動を共にしてきた近藤さんや土方さんとの意見の相違で袂を分かち、新選組二番隊組長であった永倉新八と「靖兵隊」を結成します。
しかし、左之助さんは靖兵隊として江戸を離れた道中、「用を思い出した」として単身江戸へ引き返します。
永倉さんは、「妻と子たちの身が心配になり引き返したのだろう」と語っています。
左之助さんは、自らの死を確信していたのでしょうか。
最後に一目、妻と子たちに会いたいと思ったのかもしれません。子は無事に生まれたのだろうか…。
実は、鳥羽・伏見の戦いに向かった5日後、まささんは2人目の男子を出産していました。
けれど、この子は生まれて1週間で亡くなってしまったのです。
左之助さんはまささんの寂しさをどこかで感じ取っていたのかもしれませんね。
新撰組十番隊組長・原田左之助の最後!
江戸に戻った左之助さんは、京に向かえなかったのか、向かわなかったのか分かりませんが、江戸で「彰義隊」に加入します。
そして、江戸上野での上野戦争に参戦。
しかし、その時に受けた傷がもとでその2日後、29歳という若さで亡くなってしまったのです。
まささんに会うことは叶わなかったのです。
原田左之助の馬賊伝説!
原田左之助さんには生存説が残されていますね。
江戸上野で亡くならず、新潟から下関、大韓民国の釜山を経て満州の馬賊になったというものです。
左之助さんの武骨あふれる性格からか、馬賊というのはなぜか真実味を持ちますね。
けれど、こちらも左之助さんの性格上、生きていたのならまささんに必ず会いにいってあげていたはずなんです。
実は2人は密かに会っていたのかもしれませんね。
コメント
こんにちは、その後、まささん再婚されてますよね、大阪の力士と 当時の方の感覚では、会いに行くのは憚られたんじゃないかなと思います 新政府からしてもお尋ね者だし 神戸で亡くなられていることを考えても、もう京都にはいなかったでしょうし、 でも、もし大陸で馬賊になってたらロマンですね 判官びいきかな?と思ったりしますが…