【廃藩置県】明治に行われた大政策!!最初は302県もあった?

明治時代
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廃藩置県(はいはんちけんという言葉は有名ですよね。

意味は四字熟語のようにそのままです。

「藩を廃止して県を置く」です。

 

明治時代に政府が行った政策の1つなんですが、どのような意図があり、なぜに行われたものなのか詳しく紹介していきたいと思います。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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そもそも江戸時代に「藩」は使われていない?

現在、薩摩藩や長州藩など普通に「藩」を付けて呼んでいますが、江戸時代には公的に呼んでいる人はいなかったそうなんです。

「〇〇藩」、その領主である「藩主」、その家臣「藩士」という言葉は現代歴史用語ということです。

当時の人が実際何と呼んでいたか詳しく分かっていないのです。

 

ちなみに「幕府」という言葉も使われるようになったのは江戸時代後期からなんです。

「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉も使われていなかったとか。

 

 

廃藩置県が行われた理由!

版籍奉還

大政奉還(たいせいほうかんで江戸幕府が無くなり、政権は天皇へと返されました。

王政復古(おうせいふっこにより明治新政府が樹立。

戊辰戦争(ぼしんせんそうで新政府軍が勝利すると、日本全土が新政府の支配地となります。

しかし、まだまだ各地域は江戸時代同様、大名による統治が行われていたのです。

 

日本は鎖国を止めて開国し、世界に目を向けなければならなくなります。

そこで、天皇を中心として1つとなろうという国家体制を打ち出します。

 

まずは、各大名の領地「版」と領民「籍」が天皇へと返されました。

これにより、日本の土地と人民は天皇のものという事ですね。

これが明治2年に行われた版籍奉還(はんせきほうかんです。

しかし、藩主が「知藩事」と呼び名が変わっただけであって、各領地の支配者は変わらずだったんですね。まだまだ江戸時代の頃とあまり変わっておりません。

ちなみにこの頃から「藩」という言葉が使われ出したのです。

 

 

 

廃藩置県

新政府の直轄地には「府」と「県」が置かれましたが、まだ全国の4分の1くらいでした。

それ以外を「藩」が治めていましたので、府藩県三治制(ふはんけんさんちせいという状態ですね。

しかし、府や県には中央政府から「知府事」「知県事」が派遣されていましたが、藩は元藩主である「知藩事」が治めていましたので、日本が1つになるには困難を極めていました。

 

ということで、明治4年に明治政府は知藩事たちを東京の皇居に集め「廃藩置県」を命じたのです。

藩は無くなり、知藩事たちも失職されます。

さすがにこのままだとあれなので、元知藩事たちは華族(かぞくという貴族階級へとなりました。

 

実際「藩」という言葉が使われていたのは2年程だったんですね。

 

府、県の数は?

始めは、藩をそのまま県として置き換えていたので「3府302県」もの数がありました。

しかし、このままだと土地の一部が他所に離れている「飛地」が多くまとまりも弱かったため、廃藩置県から3ヶ月後には「3府72県」に、さらに翌年以降には69県、60県、59県、35県と合併していきました。

そうすると今度は面積が大き過ぎるとの問題が浮上し、明治22年に現在の「3府43県」となりました。

 

 

藩の問題!

廃藩置県は、平安時代より長きに渡って続いてきた、領主が領地を治めるというやり方を大きく変えた政策であり、明治維新における最大の改革と言われているのです。そんな大事件であったとは…。

 

しかし良い事ばかりではなく、旧藩の債務などは全て新政府の責任となったのです。

既に各藩とも江戸時代中期頃より財政難を抱えていて、さらには幕末の黒船来航、戊辰戦争への出兵で藩の財政は火の車状態でした。

廃藩置県の前に、自ら領土の返上を申し出る藩もあったほどなんです。

 

大阪の商人たちからも「大名貸」と言われる借金をしていた藩もあったんですが、それが貸し倒れ状態となり、商人たちが逆に破産に追い込まれてしまう事態にもなったのです。

商人の多かった大阪が経済的に大打撃を受け、日本経済の中心から転落してしまったんですね。

 

 

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