【五千円札の歴史】樋口一葉から津田梅子へ!女性を初めて採用したお札!

今回も、2024年に紙幣が新しくなることが発表されたことにあやかり、五千円札の肖像画に抜擢されている偉人の方々を紹介していきます。

初代は、誰もがご存知でしょう聖徳太子(しょうとくたいしさん。

太子さんは五千円札の他に一万円札、千円札、百円札と最も多くお札に登場した偉人なのです。当時は「紙幣=聖徳太子」というイメージが大きかったそう。現代では「お札=諭吉(ゆきちさん」ですかね。

2代目は、新渡戸稲造(にとべいなぞうさん。

数多くの教授、校長を歴任し、最終的には「日本と外国との架け橋になりたい」と国際連盟事務次長にまでなったお方です。

五千円札の偉人第2回の今回は、3代目の樋口一葉(ひぐちいちようさんと2024年より変更となる津田梅子(つだうめこさんについて紹介していきます。

※歴史上のことなので諸説あります。

小説家時代は14ヶ月?樋口一葉の人生とは?

2004年11月1日より発行が開始。肖像画の人物は樋口一葉さん。日本銀行券初となる女性での肖像画なんです。

1つ前の新渡戸稲造さんの時に、清らかさをアピールするために一葉さんら女性の候補が上がりましたが採用されず稲造さんとなりました。

2000年に発行された二千円札には紫式部(むらさきしきぶさんが描かれていますがさすがに肖像画ではありません。1000年前の平安時代のお方ですからね。

樋口一葉は明治時代の小説家!

1872年(明治5年)、東京内幸町(うちさいわいちょうの長屋で下級役人の父の下で誕生しています。東京ど真ん中の江戸城目前の場所です。本名は「奈津」であり、「夏子」と名乗ることもありました。

姉、兄が2人、妹がおり、幼少の頃より物覚えが良く、4歳にして小学校に入学、読書好きの子供でした。

御徒町(おかちまちへ移ったために転校、その後、12歳の時に上野の学校を首席で卒業しましたが母の「女性に学問は不要だ!」という考えにより上級に進まず学校を辞めています。

しかし、父は一葉さんのために和歌を習わさせたり、知人の紹介により歌人・中島歌子さんの萩の舎(はぎのやに入門させ和歌や書を学ばせました。

萩の舎の生徒は上流階級の女子がほとんどで、1000人以上もいました。

そのような中で、下級役人の娘であった一葉さんでしたが、歌会の席で最高点を取るなど先生から一目置かれる存在でありました。

名家の令嬢である田辺花圃(かほさんと共に二才媛(にさいえんと呼ばれるほどでした。

田辺花圃さんとは、女性で初である近代小説を発表し、後に若い女性たちが積極的に小説家を目指すきっかけを作ったお方で、一葉さんもその1人であります。

父、兄の死により小説の道へ!

一葉さんが10歳の頃に、素行の悪さや金銭問題などで次兄は勘当されていました。

長男は、明治法律学校(後の明治大学)に入学、その後大蔵省に勤務しますが、肺結核で亡くなってしまいます。

父も警視庁を退職したのちに事業を起こしますが失敗、負債を残したまま亡くなります。

一葉さんはわずか17歳の若さで樋口家を背負うことになってしまったのです。

萩の舎の内弟子として住み込みで働いたり、裁縫や下駄作りなどの内職仕事をしましたが、それでは足りず借金をするような苦しい生活でした。

そんな中、萩の舎の姉弟子であった田辺花圃さんが小説を出版し、33円という多額の原稿料を得ました。それを知っていた一葉さんも18歳頃より執筆の活動を決意します。

※明治時代と現代のお金の価値は3800倍もあったとされ、「1円=3800円」ということです。しかもそんな単純なものではく、庶民にとってお金の価値は「1円=2万円」くらあったのではともされています。

20歳頃にいくつか執筆し、さらには新聞記者であり小説家の半井桃水(なからいとうすいさんに師事し指導を受けるようになりますが、一葉さんの小説は採用されませんでした。

しかも、この2人の関係が萩の舎で広まってしまったために、周りから猛反対を受け、桃水さんとは絶交させられてしまうのです。

その後は、独学や花圃さんのアドバイスなどで原稿料11円50銭を受け取れるまでになりました。

筆が進まない時期もあり、その頃の約1年弱は雑貨店を開くなど、後の小説の題材となる経験もしています。

奇跡の14ヶ月と呼ばれた理由とは?

22歳頃より、一葉さんの小説は評価を見せるようになり、森鴎外さんら小説家の間でも高く評価されるようになります。

わずか24歳と6ヶ月で肺結核のために亡くなってしまうのですが、亡くなる間際の14ヶ月の期間に発表した作品は日本の近代文学史に残るものばかりでした。

「奇跡の14ヶ月」と呼ばれるほどだったのです。

2024年からの新紙幣は津田梅子!

6歳にしてアメリカへ留学!?

1864年12月、江戸(現・東京都新宿区)で幕臣であった父のもと誕生しました。

時代は幕末ど真ん中です。わずか3年後には江戸幕府は無くなり、明治時代へと突入します。とても有名な坂本龍馬(さかもとりょうまさんや西郷隆盛(さいごうたかもりさん、そして新選組らが大活躍していた頃ですね。

幕臣であった父が幕府滅亡と共に職を失ってしまいますが、明治政府の事業であった北海道開拓使に参加、そこで募集していた女子留学生に梅子さんを応募させ、わずか6歳でアメリカ留学を果たしています。

岩倉具視(いわくらともみさんや大久保利通(おおくぼとしみちさんら政府首脳陣が不平等条約の改正などを目的とし、アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣した「岩倉使節団」に参加したのです。もちろん梅子さんは条約改正に関係はありませんが。

選ばれた女子留学生は5人で、そのうち2人は1年程で帰国していますが、梅子さんは11年もの間アメリカに滞在していました。留学を勧めた父も「そんなに!?」って思っていたかもしれませんね。

逆に日本に馴染めず?

帰国した梅子さんでしたが、幼くしての留学であったために逆に日本語や日本の風習などに不慣れになっていました。

自身は日本語を学び、その傍ら、後の初代内閣総理大臣・伊藤博文(いとうひろぶみさんに紹介され、皇室や華族の女子たちに英語を教育しています。

3年ほど女学校で英語を教えていましたが、上流階級の雰囲気に馴染めず、さらには幾度かの縁談も断り、「二度と結婚の話をしないで下さい。」と言ってしまうほどになっていました。

男尊女卑の風潮が残る日本では、アメリカとは違い、高等な教育を受けていても女性の活動の場が無かったのです。

25歳頃、留学時代の友人であるアリス・ベーコンさんが来日し、彼女の薦めで再度の留学を決意し、再び渡米することになりました。

2年間の留学に1年の延長を加え、大学での勉強、論文の執筆、帰国したベーコンさんの日本女性の研究の手助けをしています。日本に馴染めなかった梅子さんが女性教育に関心を持つきっかけになったと言われています。

津田塾大学の設立!

3年間の留学から帰国すると、再び華族女学校で講師として勤め、さらには明治女学院、女子高等師範学校での教授も兼任するようになります。

36歳頃には、父、ベーコンさん、幼い頃に共に留学した旧友たちの協力を得て、華族や平民の区別のない女子教育を目指し、「女子英学塾(現・津田塾大学)」を開校し塾長となりました。

女子英学塾では、これまでの女性の教育であった行儀作法というものではなく、女性が社会でも活躍できるようにするための教育を行いました。あまりの厳しさに脱落者も多かったそう。

このような独自の教育方針を邪魔されないように資金援助等も避けていましたが、そのため、無報酬で働いたりと資金不足の問題は絶えませんでした。さらには学生や教師陣の増加により経営は厳しくなっていくのです。

開校してから3年後、日本は高等教育を望む者が増加し専門学校設立申請が相次いでいました。それを統一した基準を定めるために「専門学校令」が公布、女子英学塾も社団法人となり経営は上向きとなりました。

しかし、梅子さんはこの頃より体調を崩しており、塾の基礎が整うと54歳頃に塾長を辞任、鎌倉で長期の闘病生活を強いられてしまいます。

そして、脳出血のため64歳で亡くなったのです。

後に女子英学塾は津田英学塾と改名し、昭和23年には津田塾大学として開校しました。

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