平成31年現在、日本で使われた元号は231個もあります。
鎌倉幕府滅亡と同時に朝廷が南朝と北朝に分裂してしまった「南北朝時代」では元号が別々に使用されていたので、それを含めれば247個にもなります。
今回は、その時代とともに数多く使われた元号の名称の由来と、なぜか元号が定められなかった空白の50年についても紹介していきます。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
日本初は「大化」!中国の文書から採用!
「大化」ってかなり有名な元号ですよね?
その理由は1つ。
歴史の授業で最初(の方)に習うであろう「大化の改新」という言葉に他なりません。
中大兄皇子と中臣鎌足さんが蘇我入鹿さんを暗殺した事件。
と覚えがちですが、この暗殺事件は「乙巳の変」と呼ぶのが本当のところ。
独裁政治を行っていた蘇我氏を滅ぼし、新政権を立ち上げ新国家を目指した改革の事を「大化の改新」というのです。これは50数年も続いていたんですよ。
この時、日本は当時の中国を参考にして元号を定めるようになったのです。
「大化」の由来としては、中国古代の歴史書『書経』の一文である「肆予大化誘我友邦君」、意味は「天皇陛下は諸国の君主を教え導く」といったこと。
他の数多くの歴史書からも大化の文字が見られ、そこから採用されたのだとか。
「大化」は、「偉大な徳をもって人を導く」という意味があり、当時の政府の日本を変えるといった大改革の意識が表れた言葉であったことは確かですね。
大化の次は「白雉(はくち)」!白い雉(きじ)が贈られたから採用!
日本最初の元号である「大化」は5年ほどで終わりとなります。
大化5年2月、穴門国(現・山口県)の国司から36代天皇・孝徳天皇へ白い雉が献上されました。
「聖王が世に出て天下を治める時、それに天は答え吉兆が表れる。周や漢の皇帝の時は白い雉、我らの日本国でも白鳥が宮に巣を作ったり、西の空に神馬が見えたり。
白き動物が見えた時代の天皇には徳がある。しかし、これは皆が我を誠意を尽くし助けてくれることに他ならない。
これからも清らかで真っ白な心を持って天下を栄えさせていこう」
白い雉が表れたことにより、盛大な儀式が開かれ、元号も「白雉」と改められたのです。
孝徳天皇の死去と共に5年ほどで白雉の時代は終わりましたが、吉兆と信じられての改元は平和な気持ちになりますね。
元号を付けない空白の50年があった!?
孝徳天皇が亡くなり、白雉の時代が終わると、その後32年間も元号が付けられない時代があったのです。
やっと「朱鳥」という元号が付けられたかと思うと、その時の40代天皇・天武天皇がまたしても亡くなり数ヵ月で「朱鳥」は終わりを迎え、さらに15年間も元号はありませんでした。
現在は「一世一元の制」により、天皇の在位中は元号を変えないという制度があります。
当時からも天皇が変わることにより改元をしていました。すぐに変えることは失礼であるとされていたので翌年に変更していましたが。
他にも、「白雉」のように吉兆による改元や、逆に天変地異が起こったなどの縁起の悪い元号は変更されていました。
これを踏まえると、32年間と15年間の空白、そして天武天皇が在位して数十年後にやっと「朱鳥」という元号が定められたことのタイミングに疑問を感じますね。
これらに関して多くの考察がありました。
「建元」と「改元」
「建元」とは初めて元号を立てたときに使用する言葉、「改元」は元号が変わるときに使う言葉です。
しかし、上で紹介した「大化」「白雉」「朱鳥」は全て「改元」とされていました。
この中で正しいのは「白雉」のみであり、日本初の元号「大化」や32年間ものブランクの後に付けられた「朱鳥」は正しくないのではないかとされています。
ちなみに、大化の改新で目指していた法律制度「大宝律令」が完成した701年の元号「大宝」が定められたときは「建元」とされていました。
「大化」で日本の元号は始まりましたがその後何度も元号は断絶を繰り返していました。しかし、「大宝」以降は途切れることなく現在まで続いています。
「日本」という名称もこの頃より定められ、国として本格的に向かうべき道が見えたといったところなのでしょうか。
藤原氏による陰謀?
大化の改新の中心人物の1人でもある中臣鎌足さんは、その後も中大兄皇子の側近として活躍し、亡くなる直前に「藤原」の姓を賜っています。日本の歴史上で最大の氏族「藤原氏」の始祖でありました。
藤原氏と天武天皇の長男・高市皇子、その子・長屋王は対立関係にあり、本来この時には他に天皇がいたのですが、実は高市皇子は天皇に即位していたのではという説があります。
「朱鳥」という元号は1年も使われていないとされていますが、日本最古の和歌集『万葉集』には、朱鳥8年や朱鳥10年といった記載が見られます。
「朱鳥」を高市皇子の元号とすれば、亡くなった696年まで使われていたとするとピッタリ当てはまるのです。
さらに、「朱鳥」と「大宝」の間にも「朱雀」という元号があったとされ、「朱雀」は幼い長屋王を補佐していた高市皇子の弟・忍壁皇子が天皇に即位し元号としていたのではないかといいます。
そして、701年「大宝」は長屋王の元号ということになります。
これらは、対立関係にあった藤原氏によって歴史書『日本書紀』から消されたというのです。
九州王朝の「九州年号」とは?
九州地方に日本を代表する王朝があったという説があり、その王朝は年号を使っていたといいます。
517年「継体」から700年初頭の「大長」まで、30数個の元号が使われていました。
「大化」「白雉」「朱鳥」は九州年号にも存在しており、これらは盗用されたものではないかとされおり、そのため、「建元」ではなく「改元」としていた?
九州年号には「白鳳」という元号があり、実は空白の32年間の頃にこの元号も使われていたのではないかという説もあります。この時代の文化を「白鳳文化」と呼んでいました。
九州年号との関係は深そうですね。
「大化の改新」の別の解釈?
大化の改新は645年というのは有名ですが、本当は50年後の695年であったという面白い説があります。
九州年号にも「大化」は存在し、それは695年でした。
中臣鎌足さんの次男に藤原不比等さんというお方がいますが、この方の子孫のみが藤原姓を名乗ることが出来ました。そして、藤原氏の黄金時代を作り上げていきます。
ここにある説として、実は「鎌足=不比等」というものがあります。
本来、645年に中大兄皇子と中臣鎌足さんが蘇我入鹿さんを暗殺した事件「乙巳の変」は起こり、軽皇子(36代・孝徳天皇)が即位し「大化の改新」を行います。中大兄皇子がなぜ自身で天皇にならなかったのかという謎が残りますよね。
実は、「乙巳の変」は695年に起こっており、軽皇子(42代・文武天皇)と中臣鎌足(=不比等)さんが高市皇子を暗殺したという事件だというのです。
なんとも面白く、説得力のある考察ではないでしょうか。
コメント
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読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。