【蒲生騒動】会津92万石から宇都宮12万石へ減封!石田三成の策略?

戦国時代
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今回は、織田信長(おだのぶながさんに「こやつの瞳は他とは違う。只者ではあるまい!」とまで言わしめ、信長さん自身の娘を嫁に迎えることが出来た蒲生氏郷(がもううじさとさん。

ではなく、会津(現福島県)に92万石の大きな領土を与えられるが、氏郷さん亡き後、蒲生家は宇都宮に12万石に減封になってしまった事件について紹介します。

 

蒲生家にいったい何が起きたのでしょうか?

それではまいりましょう。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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織田信長、豊臣秀吉に気に入られた蒲生氏郷!

蒲生氏郷さんの父は織田信長さんと敵対する武将でした。

しかし、信長さんとの戦いに敗れ、まだ幼い氏郷くんを人質に出し家臣となったのです。

信長さんは自身の娘を氏郷くんへ嫁に出すほど、蒲生親子を大変気に入っていました。

 

しかし1582年、あの有名な事件が起こります。

信長さんの家臣・明智光秀(あけちみつひでさんの裏切り「本能寺の変」です。

信長さんが亡くなると、蒲生親子は信長さんの家族を自身の城で匿います。

しかも逃げる際、信長さんの城・安土(あづち城の宝を持って行こうという家族たちの誘いを断っています。

「欲にふけると、神仏の加護に見放されてしまう」と。

 

さらに、謀反を起こした明智光秀さんからの味方になってほしいという再三たる誘いを、「信長様の恩を忘れることは出来ない!」と断り続けます。

 

このエピソードだけでも、素晴らしい人柄の親子だったのだと分かりますね。

 

その後、氏郷さんは蒲生家の家督を継ぎ、天下人・豊臣秀吉(とよとみひでよしさんの下、数々の武功を上げていきます。

秀吉さんは、「100万の軍勢を率いさせたいのは、徳川家康(とくがわいえやすでも前田利家(まえだとしいえでもなく蒲生氏郷だ!」と言わしめるほど評価していました。

実は違う人だったという説もありますが…。真偽は違えど名前が出るだけ凄い事です!

 

そして、秀吉さん天下統一の最後の締めでもある奥州仕置(おうしゅうしおき(東北地方)で、氏郷さんに会津を任せることとなったのです。

東北の伊達政宗(だてまさむねさん、関東の徳川家康さんを牽制するための配置ともされています。

とても重要度の高い役目ですね。

 

それとは逆に、秀吉さんは氏郷さんの才能に恐れ、京より遠い会津の地に置いたという説もありますが…。

それほどまでに、氏郷さんは才能に満ち溢れたお方だったのですね。

氏郷さん自身は、「小さい国であっても京より西が良かった。京より離れた辺境の地では武功の機会が失われる」と涙したといいます。まじめなお方です。

 

 

 

蒲生家の家臣たち!

蒲生氏郷さんは会津へ移動になる条件として、秀吉さんに

「自分には武功のある家臣が多数いるわけではなく、このままでは会津を守るのに自信がない。今天下には数多くの主人のいない力のある浪人たちが多い、その者たちを私が面倒見ても良いでしょうか?」と。

新たな家臣を引き連れて会津へ向かうことになります。

 

氏郷さんは、家臣をとても大切にする器量人、今でいうカリスマ性を持ったお方でした。

自ら家臣のために風呂を沸かしたり、料理を振舞ったりしたそうです。当時では、お風呂は最高のおもてなしだったのだとか。

 

さらには、家臣の恩賞として、「蒲生」の名字や「郷」の字を与えています。

そのため、兄弟や子供といったわけではないのに、家臣の中に「蒲生〇〇」といった名前の方々がとても多いのです。

 

しかし、氏郷さんのカリスマ性に惹かれて集まった家臣たち、元々は個々に力を持った者たちですからプライドも抜群に高かったのです。

氏郷さん亡き後、まだ13歳の子・蒲生秀行(がもうひでゆきくんが家督を継ぎますが、父とはまだまだ比べ者にならなず、家中を上手く統率出来ませんでした。

そのため、「蒲生騒動」というお家騒動が起こってしまったのです。幼いですから当たり前ですよね。

 

 

蒲生騒動起こる!

蒲生家の筆頭家老に蒲生郷安(がもうさとやすさんという蒲生氏郷さんからの信頼の厚かった家臣がいました。

氏郷さんが亡くなり、その子・蒲生秀行くんが家督を継ぐと、郷安さんはどんどん自分勝手になってしまいます。

その事に不満を持った同僚の蒲生郷可(がもうさとよしさんや蒲生郷成(がもうさとなりさんらと対立し始めるのです。

ちなみにこの3人の家臣は似たような名前ですが、氏郷さんの家族ではないです。

「家臣は家族と一緒だ!」と思っていた上司であったなら家族なんですが…。もしかしたら氏郷さんはそういう考えの持ち主だったのかもしれませんね。

 

実は、氏郷さんが存命中もこのお三方は揉め事を起こしていました。

氏郷さんが九州に出向いている頃、逃亡した家臣の処置について郷安さんと郷可さんが対立し、郷成さんが仲裁するという内容でした。

しかも郷安さんは、豊臣秀吉さんが一番信頼を置いていた家臣・石田三成(いしだみつなりさんと通じており、40歳という若さで亡くなった氏郷さんを三成さんの命令で毒殺したのではないかという見方もあるのです。

氏郷さんの死因は癌であったという見方が有力のため、毒殺説は否定されましたが、当時は郷安さんが疑われるような怪しい部分があったということにもなりますね。

 

そして氏郷さん亡き後、家臣を誰も抑えることが出来なくなった蒲生家に最大の事件が起こります。

以前より仲の悪かった郷安さん、郷可さん、郷成さんのお三方に、秀行くんの身の周りの世話をする小姓(こしょうの筆頭でもある亘理八右衛門(わたりはちえもんさんとの対立です。

そしてなんと、郷安さんは八右衛門さんを城に呼び出し斬殺してしまいます。

これに対し、郷安さん暗殺計画も持ち上がり一触即発の事態となってしまったのです。

 

この事件を知った京の豊臣秀吉さんは、郷安さんを呼び寄せ取り調べを行いました。

しかし、郷安さんは軽い罪で免れたのに対し、この揉め事を上手にまとめられなかった秀行くんに非があるとして、会津92万石から宇都宮12万石に大減封されてしまったのです。

 

 

 

蒲生騒動の裏の真実!

絶大のカリスマ性を持っていた蒲生氏郷さんが亡くなり、その子・蒲生秀行くんには大きな領土であった会津92万石は任せられないと考えていた豊臣秀吉さんと石田三成さん。

 

蒲生郷安さんを使ってわざと「蒲生騒動」を引き起こさせたのではないかという説があります。

騒動を起こした張本人である郷安さんが、ほとんど罪に問われてないのも不自然でありますし、蒲生家の後に会津を治めることになった上杉家。

その家老・直江兼続(なおえかねつぐさんは三成さんととても親しかった人物であります。

 

伊達政宗さんや徳川家康さんを牽制しなければいけなかった会津を、秀行くんでは頼りないと見ていたのでしょう。

 

もう一つの説としては、秀行くんの、すなわち氏郷さんの正室、ということは織田信長さんのですね、このお方がとても美しい人で秀吉さんは側室に迎えようとしていました。

しかしこれを拒否され、秀吉さんは不愉快となったからという説もあります。

そんな事で?ってなりますが、秀吉さんは部類の女性好きで、妻が何十人もいましたので考えれれない話でもないですよね。

 

 

 

まとめ

織田信長さん、豊臣秀吉さんに気に入られ、会津92万石の領土を得たカリスマ性抜群の蒲生氏郷さん。

しかし、40歳という若さで亡くなってしまうと、家臣たちの対立が激化!

「蒲生騒動」が起こり、宇都宮12万石に減らされる原因ともなってしまいました。

それは、豊臣秀吉さんや石田三成さんの陰謀ではないか?ということでしたね。

 

その後、宇都宮に移動してから僅か2年で、あの「関ヶ原の戦い」が起こり、東軍・徳川方に付いていた蒲生秀行くんは再度会津60万石に返り咲くことになったのです

 

しかし、第2次と言いますか、家臣の対立「蒲生騒動」がまたしても勃発してしまいました。

そして、心労がたたってか、僅か30歳で亡くなってしまったのです。

 

なんとも家臣に振り回されてしまった人生でしたね。

 

 

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