今回は、幕末に起こった「新政府vs旧幕府」の最後の戦い「戊辰戦争」。
その最中にも関わらず、旧幕府軍の大将、徳川将軍家の本拠でもある「江戸城」を抵抗なく明け渡した「江戸開城」について紹介していきます。
争いもなく江戸城を明け渡した旧幕府側にはどのような思いがあったのでしょう。
本拠地江戸城を明け渡したにも関わらず、この先も戊辰戦争はまだまだ続いていきます。
まだまだ序章でしかないうちに江戸城は解放されたのです。
それではまいりましょう!
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
戊辰戦争開戦!!
「大政奉還」の裏の意味?
徳川幕府最後の将軍でもある15代徳川慶喜は、「大政奉還」で政権を幕府から朝廷に返しました。
これで、鎌倉幕府より700年あまり続いた武家政治に終わりを告げます。
しかし慶喜さんには考えがあり、大政奉還をしたところで、朝廷には政治を運営する能力も体制もない為、結局は徳川家が政治を任せられると睨んでいたのです。
しかも、慶喜さんは将軍職を辞職しますが、受理されませんでした。
そして、薩摩藩などの倒幕派の「武力を持って幕府を倒す」という目的を抑え込み、平和裏に政体変革をするという考えもあったようです。
「王政復古の大号令」で大逆転!?
慶喜さんは「大政奉還」をしないだろうと思っていた薩摩藩たち倒幕派は大誤算!!
そして、慶喜さんの思惑通り、朝廷は慶喜さんに政治を引き続き任せたのです。
徳川家の支配が続くかと思われた、大政奉還から2か月後、倒幕派はさらなる一手を打ちます。
「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を決定したのです。
慶喜さんの将軍職辞職を受理し、幕府も完全に廃止、摂政や関白、京都守護職などの名前を聞いたことがあるような役職も廃止となりました。
慶喜さんの領土没収も決定してしまいます。
「鳥羽・伏見の戦い」で幕府軍は賊軍に!?
幕府に対する理不尽な処分に、兵たちが激昂する恐れがあり、京都で新政府軍と戦えば幕府軍は朝廷に敵対する「朝敵」となる恐れがありました。
そんな中、江戸で幕府兵による薩摩藩邸焼き討ちの事件が起こっていました。
薩摩による幕府に対してのクーデターがあるという情報があったのです。
この事件により、大阪にいた幕府軍は激昂!
「薩摩討つべし!」
と、ついに「新政府軍vs旧幕府軍」の戦い「戊辰戦争」が開始されてしまったのです。
戊辰戦争の初戦でもある「鳥羽・伏見の戦い」では数的に優勢であった幕府軍ですが、朝廷が新政府軍は朝廷の軍隊という「官軍」であるとしてしまったため、必然的に旧幕府軍は朝廷の敵である「賊軍」となります。
「賊軍」となった旧幕府軍は完全に戦意喪失…。
慶喜さんも軍を捨て我先に江戸へ戻ってしまい、旧幕府軍の敗北となってしまったのです。
みんな大好き「新選組」も幕府軍ですから、この戦いで敗戦しています。
江戸城開城へ!
徳川家の方針は白旗?
新政府軍は「慶喜さん追討令」を発しました。
江戸に戻った慶喜さんは、「恭順」か「抗戦」かの2択を迫れれることになります。
そして、徳川家の取った選択は「恭順」に決定、人事も恭順派の大久保一翁さんや勝海舟さんが仕切るようになります。
慶喜さんも、上野寛永寺に籠り、恭順をあらわにした謹慎生活を送りました。
旧幕府軍にはもちろん「抗戦派」もいたわけで、徳川家の公式方針に不満を持ち独自に行動を移すようになります。
戊辰戦争が函館まで続いた理由ですね。
抗戦派は各地で隊を結成し、新政府軍と戦っています。
新撰組が「甲陽鎮撫隊」と名を変え、甲州勝沼で戦ったのもその一つです。
陸軍総裁だった勝海舟さんが暗黙の承認で行われていたこれらの戦いの意図は、恭順への不満を持っている抗戦派を江戸から排除する目的があったとも言われているのです。
西郷隆盛と山岡鉄太郎の交渉
3月9日、旧幕府制圧軍の参謀であった、上野の銅像でも有名な西郷隆盛さんに、勝海舟さんの手紙を持った山岡鉄太郎なる人物が駿府(静岡県)で面会します。
この時、新政府軍による江戸城進撃は3月15日と決定していました。
開戦回避を進言する山岡さんに対し、西郷さんから出された提示は、
- 江戸城開け渡し
- 城内の家臣は向島で謹慎
- 軍艦、武器を全て引き渡し
- 暴動が起きた場合、官軍の鎮圧
- 徳川慶喜の暴挙に関与した者の処罰
- 徳川慶喜の身柄を備前藩(岡山県)に預けること
これに対し、山岡さんは慶喜さんの身柄を差し出すことだけは絶対に受けれないと断固拒否しました。
「もしあなたのお殿様を差し出すことになったら、あなたは承知しますか!?」
西郷さんは山岡さんの忠義に心を動かされ、慶喜さんの身の安全を保障したのです。
山岡さんも西郷さんの決断に感謝し涙したと言います。
西郷隆盛と勝海舟の第一回交渉。
既に、新政府軍による江戸城包囲網が完成しつつある3月13日に、第一回交渉。
深い話は行われず、若干の質問や応答と明日の会談場所の約束のみで終了。
ドラマなどでは演出上、西郷さんと勝さんの2人での会談が描かれますが、実際は山岡さんなど数人も同席しています。
江戸城進撃前日の第二回交渉。
勝さんからの降伏条件の回答は、
- 江戸城明け渡しの手続きを終えた後は、御三卿田安徳川家へ返却
- 城内の者は城外で謹慎
- 武器、軍艦はまとめておき、後に差し出す
- 暴動の件は可能な限り努力する
- 徳川慶喜を助けた者の、命にかかわる処罰は出さない
- 徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎
これは、骨抜きな回答であり、新政府の提示を拒否したようなものでしたが、西郷さんは勝さんらを信頼し、明日の江戸進撃を中止、回答を京都へ持ち帰り検討することを約束したのです。
のちに、勝さんはこの時の西郷さんについて語っています。
「西郷はおれの言うことを全て信用してくれた。最後まで手を膝の上に置き正座を崩さず、敗軍の将を軽蔑するような態度を見せなかった。
西郷のおかげで、江戸の百万の命と財産、徳川家滅亡の危機が救われた。」
江戸城無血開城なる!
西郷さんは京都に、勝さんとの会談内容を持ち帰り、改めて新政府内で会議された。
もちろん各々で納得のいったもの、行かないものもあったが、再度、修正、確定され、西郷さんは再び勝さんの元へ。
そして、新政府と徳川の合意がなされ、1868年4月、江戸城無血開城は完了したのです。
まとめ
今回は、新政府軍vs旧幕府軍の最中、徳川の本拠地である江戸城を争い無く明け渡したお話でした。
江戸100万人の民と江戸の町を戦火に巻き込まなかったことは最大の成果とされています。
勝さんは西郷さんを「江戸の大恩人」と讃えているのです。
もちろん勝さんも大恩人です。
もし、江戸の町が戦場に変わっていたら、首都東京もなかったかもしれませんね!
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