「今日は『ぶれいこう』でー!」
忘年会などの飲み会の席で必ずと言っていいほど聞くセリフですよね。
そして上司と部下の垣根を超えた酒宴が始まる…。
この「ぶれいこう」という行為が初めて行われるようになったのは、昔々の鎌倉幕府の時代からなんです。意味も現在と変わっていません。
そしてこれを初めて行ったのが、一番偉い天皇だったというのが驚き。
第96代・後醍醐天皇。
天皇の中では、1、2を争うほどの知名度のあるお方ではないでしょうか。
倒幕計画が発覚し1度は流罪に合うも、その後、鎌倉幕府を滅ぼした天皇です。
この時の「ぶれいこう」という密談が一役買っていたのです。
ということで今回は、「後醍醐天皇」と「倒幕」と「ぶれいこう」の関係について紹介していきます。
ちなみに「ぶれいこう」を漢字にすると「無礼講」となります。漢字があったなんて考えたこともなかったですね。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇とは?
鎌倉幕府の将軍たち!
1288年、第91代天皇の第二皇子として誕生。
時代は、鎌倉幕府7代将軍の頃でありましたが、初代将軍・源頼朝さんの嫡流が3代で断絶すると、頼朝さんの妻・北条政子さんの家系である北条氏が鎌倉幕府の実質的な最高指導者となっていました。
公家の藤原氏から2人、皇族から4人の将軍が誕生していますが、ほとんどお飾りのようなものだったのです。
第96代天皇となるが…⁉︎
1318年、31歳という遅い年齢で即位することになります。
これには理由があり、異母兄の第94代・後二条天皇の第一皇子がまだ幼少であるため、成人して皇位につくための中継ぎの即位でありました。
自身の子孫を皇位に継がせることを否定されており、さらには上皇となっていた父が政務を取り仕切っている状態、そしてこれらを承認している鎌倉幕府に対する不満が徐々に高まっていったのです。
2度にわたる「倒幕計画」!!
34歳頃より、父に代わり政治を開始しますが、中継ぎの天皇でしかないという自身の立場に激しく反発し倒幕を企てようとします。
しかし、側近らが各地の武士や有力者たちに呼び掛けしている最中、計画が発覚してしまいます。
側近らが処分されていく中、後醍醐天皇は釈明書を幕府に提示すると「無関係であった」という判断で咎めはありませんでした。
その後も、密かに倒幕計画を進めていましたが、いかんせん味方があまりにも少なく次第に窮地に陥っていきます。
側近の密告により再度の倒幕計画が発覚。後醍醐天皇は三種の神器を持ち、なんと女装に扮して京都御所を脱出し挙兵を開始したのです。
しかし、幕府軍の圧倒的な兵力の前に敗戦し捕らえられ隠岐島(島根県)に流罪となってしまいます。
後醍醐天皇は流罪からわずか1年足らずで隠岐島より脱出。
元々は幕府方であった後の室町幕府初代将軍・足利高氏(尊氏)さんらの味方により、鎌倉を陥落させ北条氏を滅亡させたのです。
京に戻った後醍醐天皇は、天皇自ら行う政治である「建武の新政」を開始しますが、これに尊氏さんは反発を見せ対立していくことになります。
後醍醐天皇が吉野(現・奈良)に新しく朝廷を開いたことにより、京都朝廷と吉野朝廷という2つの朝廷と2人の天皇が並立する「南北朝時代」が始まったのです。
一応「無礼講」もご説明!
「無礼講」とは、『地位の上下を無くし楽しむ酒宴の場』というように誰もがお使いのままの意味ですね。
逆に「礼講」という言葉もありまして、日本の古くからの神事として「神と人が同じものを食す」というものがあり、神に捧げたお酒を身分の高い者から頂くという儀式が「礼講」といいます。
座席の場所、酌の順番、杯の手順などの儀礼がちゃんとあります。
そして、「礼講」の後の堅苦しさを無くした会を「無礼講」というのです。
間違っても、「無礼がOK-!」という意味ではないということですね。
そもそも「構わない」の漢字が違いますよね。紛らわしい。
鎌倉幕府を倒すために開かれた「無礼講」!!
後醍醐天皇が密かに倒幕計画を始めたが、それが事前に発覚してしまい側近らが処分されてしまった事件「正中の変」。
この計画の時に無礼講の名目のもと倒幕の密談が行われていたと言うのです。
天皇や武士といった身分を越えた密儀を行えるよう、その場にいた者らに礼服である烏帽子や法衣を脱がせ身分を取り払い、女子数人に酌をさせ歌い舞うという酒宴を開いていました。
これが「無礼講」の起源であると言われています。
突然、天皇とお酒を飲んだり話したりすることにその場にいた人はとまどいを隠せなかったことでしょう。現在でも難しい事なのに、「無礼講」というものが無かった時代ですから尚更ですよね。
当時も「今日は無礼講でー!」なんて叫んでいたんでしょうか?
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