【徳川御三家が敵?】戊辰戦争で新政府側に味方した理由とは?

江戸時代
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江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやすさん、2代目が家康さんの3男・徳川秀忠(とくがわひでたださん。

というように将軍家の血筋は続いていきますが、どこかでそれが途絶えるかもしれません。

そんな時のために作った「徳川御三家」。

家康さんの9男の「尾張(おわり徳川家」、10男の「紀州(きしゅう徳川家」、そして11男の「水戸徳川家」です。

実際に、「暴れん坊将軍」こと8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむねさんは紀州家出身です。

 

なんて、徳川御三家を軽く紹介しましたが、

今回紹介したいのは、江戸時代の幕末に起こった「戊辰(ぼしん戦争」、明治新政府軍vs旧幕府軍の戦い。

実は「徳川御三家」は幕府軍ではなく、なんと新政府軍に味方していたのです。

 

そして幕府が無くなると、矢面に立たされたのは「会津松平家」。

「会津戦争」では会津の悲劇とまで言われるほど、徳川家のために最後まで戦い続けます。

 

ということで今回は、なぜに徳川御三家は徳川家の敵として戦うことになったのかを紹介したいと思います。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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御三家筆頭、尾張徳川家!

徳川家康さんの9男・徳川義直(よしなおさんが尾張藩(現・愛知県)の初代藩主で、「金の(しゃちほこ」で有名な「名古屋城」は、家康さんが義直さんのために建てたお城なのです。

ちなみにここには「那古野(なごや城」が建っており、織田信長(おだのぶながさんが誕生したお城でもあります。

尾張の地は、京と江戸を結ぶ「東海道」や「中山道(なかせんどう」が通る重要な位置にありました。

 

尾張徳川家から将軍は出なかった!

尾張藩4代藩主・徳川吉通(よしみちさんは、第6代将軍・徳川家宣(いえのぶさんに高く評価されており、自身の子・家継(いえつぐくんはまだ幼かったため将軍後継ぎを家臣に相談しています。

「家継は幼く、家康公が御三家を作られたのはこのような時のためだ。吉通殿に将軍職を譲ってはどうだ?」

しかし、家臣たちは「我々が家継殿をお助けします!」ということで、そのまま7代将軍となりました。

 

その後、家継くんは8歳で亡くなってしまったのですが、そして今度は8代将軍問題です。

候補は、尾張藩6代藩主・徳川継友(つぐともさんと紀州藩5代藩主・徳川吉宗さんです。

継友さんは皇室とも繋がりあり、6代将軍・家宣さんの家臣らからも引き立てられ有力候補でしたが、結局は大奥からの支持が高かった吉宗さんが8代将軍となったのです。女は強しというところでしょうか。

 

御三卿誕生により、将軍から更に遠ざかる!

徳川吉宗さんが御三家と似たような「徳川御三卿(ごさんきょう」を作ります。

吉宗さんの次男「田安徳川家

吉宗さんの4男「一橋(ひとつばし徳川家

吉宗さんの長男で9代将軍・徳川家重(いえしげさんの次男「清水徳川家

この御三卿は、将軍家や御三家の後継ぎが絶たれた時の後継者として選ばれます。

 

これにより、尾張家は御三家筆頭にも関わらず、将軍を出すことが出来なかったのです。

 

義直の血筋の断絶と、将軍家との確執?

尾張藩9代藩主の時代、子が早くに亡くなってしまい、初代藩主・徳川義直さんの血筋はここで途切れることになります。

10代藩主から13代藩主まで、8代将軍・徳川吉宗さんの血筋である一橋家から養子をもらっています。

しかし、彼らは尾張には来ずに江戸にいることがほとんどであったため、尾張藩の財政は赤字となっていったのです。

 

こういったこともあり、尾張藩は御三卿からの養子を阻止するようになり、高須藩より徳川慶勝(よしかつさんを14代藩主として迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めます。この方は、血筋としては水戸藩です。

慶勝さんは、14代将軍後継問題で大老・井伊直弼(いいなおすけさんと対立し、安政の大獄では隠居処分にもなってしまいます。

 

戊辰戦争で幕府と敵対!?

新政府軍vs旧幕府軍の戦い「戊辰戦争」が起こると、尾張藩は新政府軍側に味方することになります。

将軍を出すことが出来なかったことや、幕府から養子を押し付けられたことが理由として挙げられますが、そもそも初代藩主・義直さんは勤王家(きんのうかで尾張家の家訓である「王命に(って(もよおさるる事」を掲げています。
「幕府の家臣ではなく、天皇に忠義を尽くす」という事ですね。

明治天皇は新政府側にいましたから、尾張徳川家は幕府を裏切った訳ではなく、藩祖・義直さんの思想を貫いただけということになりますね。

 

 

 

何人もの将軍を輩出した紀州徳川家!

徳川家康さんの10男・徳川頼宣(よりのぶさんが紀州徳川家(現・和歌山県)の初代藩主で、京と江戸を太平洋経由で行き交う途中の要とした場所です。

 

「将軍家に後継ぎが絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」と決められており、実際、7代将軍・徳川家継くんが8歳で亡くなったため将軍家は断絶、8代将軍・徳川吉宗さんから紀州家の血筋となっていくのです。

さらに、吉宗さんが御三卿を作ったことにより、紀州家の血筋は大いに繁栄していくことになります。

 

8代、14代で将軍後継問題が勃発!

尾張藩6代藩主・徳川継友さんと紀州藩5代藩主・徳川吉宗さんとで将軍後継問題が起こり、吉宗さんが8代将軍となりましたね。

 

そして、14代将軍を決めるときも後継問題が起こっています。

紀州藩13代藩主・徳川家茂(いえもちさんと一橋家9代当主・徳川慶喜(よしのぶさんが候補となります。

慶喜さんは御三家の水戸徳川家から一橋家への養子なんです。

 

家茂さん推しだった大老・井伊直弼さんは水戸藩と対立してしまい、有名な「桜田門外の変」で水戸浪士に暗殺されてしまう事件に繫がるわけですね。

 

 

 

 

戊辰戦争では恭順姿勢!?

戊辰戦争が開始され、その初戦でもある鳥羽(とば伏見(ふしみの戦いで15代将軍・徳川慶喜さんは早々と江戸に逃げ帰ってしまいます。

そうなると、兵士は士気を失いそのまま敗戦してしまいます。

紀州藩は御三家の一つでもありますし、敗走した兵士たちが紀州藩内に逃げ込んで来ましたから新政府軍からの攻撃を受けかけます。

紀州藩は戦う意思はないということを証明するために、兵士1,500人と軍資金15万両を新政府軍に献上しました。

 

慶喜さんが大阪から江戸へ戻る際、「大阪城を紀州藩で守るように!」と、なんか勝手な指示を残していますが、これを「荷が重い」という理由で拒否しています。

幕府のためよりも、自藩を守るため、そして天皇の敵になりたくないという思いの方が強かったのだと思われますね。

 

その後、徳川将軍家も「恭順」姿勢となり、江戸城の無血開城、そして慶喜さんも自ら謹慎生活に入ったのです。

 

そして、新政府軍の矛先は会津藩や旧幕府の「抗戦派」へと向けられました。

 

 

 

 

御三家の三番手?水戸徳川家!

徳川家康さんの11男・徳川頼房(よりふささんが水戸徳川家(現・茨城県)の初代藩主です。

水戸藩は東北地方に向かう水戸街道の途中に位置しています。

 

水戸藩は、尾張家や紀州藩に比べて石高(こくだかが半分もなく、頼房さんが「徳川」姓を名乗れるようになったのも33年も後だったと言われており、紀州家の分家とみなされていたといいます。

その理由として、徳川家康さんが頼房さんに欲しい物をたずねると、

「天下が欲しい!」と答えます。

これには家康さん、世を乱す恐れがあるんじゃないかと心配になります。確かに親としてはかなり心配ですよね。

そして、水戸藩が御三家入りしたのも6代将軍以降のことなのです。

 

勤王家の水戸家!

水戸家には、「徳川将軍家と朝廷との争いが起こったら、迷わず天皇に味方せよ!」という家訓があったようです。

 

水戸藩で形成されてきた思想は「水戸学」と呼ばれ、幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新への原動力となりました。

水戸藩が、徳川御三家にも関わらずこの思想に熱心だったのは、御三家の三番手で将軍を継ぐ資格も回ってくる可能性もゼロに等しいと悟っていたからと言われています。

「御三家であっても、水戸家からは将軍を出さない!」という定めもあったとか。

15代将軍・徳川慶喜さんは水戸家出身ですが、一橋家の養子になっていますので水戸家ではないのです。

 

こういう考えを持っていますから、水戸藩が戊辰戦争で新政府軍側についたのにも納得いきますよね。

 

 

 

まとめ

今回は、徳川将軍家に次ぐ地位をもっていた御三家が、戊辰戦争で新政府側についた理由について紹介しました。

御三家筆頭にも関わらず、1人も将軍を出せなかった尾張家、

数々の将軍を輩出しますが、自身の藩を守った紀州家、

三番手という立ち位置の中、独自に生き残るために発展していった水戸家。

それぞれの思惑があったことでしょう。

 

その中で、「将軍家を守護するべき存在である!」という家訓を守り抜き、最後まで新政府軍と戦ったのが「会津松平家」だったのです。

 

 

 

 

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