源平合戦の最後の戦いでもある「壇ノ浦の戦い」。
そこに幼い天皇、まだ6歳であった安徳天皇がおられました。
壇ノ浦と言えば、平氏が滅亡した場所でもあります。
幼い安徳天皇がなぜ平氏と共にいたのか?
どのような最後だったのか?
今回は、安徳天皇の短く悲しい人生を紹介していきます。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
安徳天皇の祖父は平清盛?
平氏の世
平清盛が平家棟梁になると、平氏の勢いは止まりません。
天皇の妻を平家から嫁がせ、政治の世界に介入したり、中国との「日宋貿易」成功させ、莫大な財を手にするのです。
超有名な、「平氏にあらずんば人にあらず」と言ってしまうほどの平氏の世だったのです。
1歳4カ月の天皇
清盛さんは、自身の娘である徳子を天皇に嫁がせ、その子・安徳天皇を1歳4カ月で天皇としたのです。
もちろん1歳そこそこの子供が政治を動かせるわけでもなく、清盛が政治の実権を握っていくことになります。
安徳天皇は、生まれたときから平氏の道具とされてしまっていたのですね。
平清盛の死
清盛さんはなんと、長年京都にあった都を福原(神戸)に移したのです。
しかし、これは失敗に終わり半年ほどで京都に都が戻りました。
だんだんと平氏の世に陰りが見え始め、平氏に不満を持つ各地の武士たちが源氏に味方をするようになります。
どんなに栄華を極めてもいつの日か終わりは来てしまうものなのです。
そしてついに、棟梁・清盛さんが亡くなると、平氏は京の都を追われることになります。俗に言う「都落ち」ですね。
その時に、平氏は天皇家に代々伝わる「三種の神器」とまだ幼い安徳天皇も一緒に連れていくのです。
異例である2人の天皇誕生
安徳天皇が平氏と共に都落ちしてしまったため、新しく天皇を即位させることにします。
安徳天皇の弟でもある後鳥羽天皇です。
しかし、この時はまだ安徳天皇は退位していませんので、2年ほど天皇が2人いたことになるのです。
しかも、「三種の神器」のないままの即位は、後鳥羽天皇にとって一生の「コンプレックス」だったと言われています。
「三種の神器」は代々天皇に受け継がれていますからね。「私は天皇であるのか?」ということでしょう。
そして、安徳天皇は平氏と共に源氏に追われ、最終決戦の地である「壇ノ浦」へと向かうことになるのです。
壇ノ浦での最後
平氏は、「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」と源氏に敗れ、海上へと逃れます。
時は1185年4月、源義経率いる源氏軍と壇ノ浦の海上で激突しました。
平氏軍500艘、源氏軍800艘と言われています。
正午に合戦は開始されると、潮の流れを熟知している平氏が始めは優勢でした。
大将・義経を打ち取らんばかりに攻めかかります。
しかし、時が過ぎるにつれ潮の流れは変わり、源氏軍の猛反撃に合います。
平氏軍は壊滅状態に陥り、敗北を悟った平氏一門は次々と海へ身を投げていくのです。
亡き清盛の妻・時子は、三種の神器と安徳天皇抱き寄せます。
「私をどこへ連れていくのか?」と安徳天皇。
「この世は辛い場所ですから、極楽浄土へ参りましょう。海の下にも都はございます。」
天皇は小さな手を合わせ、念仏を唱えながら壇ノ浦の海へ身を投じたのです。
6歳4カ月の生涯を閉じました。
三種の神器のうち2つは源氏軍が確保しましたが、「宝剣」だけはこの時に失ったとされています。
数多く残る生存説?
東北地方
青森県つがる市天皇山には、安徳天皇が落ち延びた伝説が残っています。
名前がそれを伝説とさせますね。地元の人たちも恐れ多く、山の名を呼ばなかったともされているのです。
摂津国
安徳天皇は4人の家臣と摂津国(大阪北東)まで落ち延びました。
しかし、翌年には亡くなってしまったのですが。
1800年代に入り、とある民家の屋根瓦の取り替え工事の際、黒く焦げた竹筒が発見されます。
その中に入っていたのは、1217年に書かれた遺書だったのです。
壇ノ浦から摂津国まで落ち延びてきた詳細が、事細かく書き記されていたのでした。
しかも、その地にある来見山の山頂には安徳天皇のお墓まであります。
もうこれは信じるしかない状況ですよね。
しかし、その遺書は偽物であるという見方もあるのです。
何が真実なのでしょうね。
中国・四国地方
阿波国(徳島県)では、天皇一行が山々を通るときに鉾を使って歩いたということで名付けられた「鉾伏」。
谷を渡るときに、栗の枝を切って橋を作ったとされる「栗枝渡」という地名があるのです。
ちょっとこれは無理矢理感が否めないですかね。
徳島県にある剣山には、安徳天皇と共に壇ノ浦の海に沈んだとされていた、三種の神器の「宝剣」を天皇自らが修めたという伝説もあります。
もともと「太郎山」であったが「剣山」に変わったとされているのです。
九州地方
肥前国(佐賀県)に落ち延びた安徳天皇は、出家した後、宗(中国)に渡り仏法を修め、帰郷してからは和尚となり43歳で亡くなったというものまであります。
まとめ
今回は、1歳ちょっとで天皇となり、6歳という若さで平氏滅亡と共に、短くも悲しい人生を歩んでしまった安徳天皇について紹介しました。
しかし、歴史では当たり前かのように生存説は存在しております。
しかも、その数はかなり多いです。
当時は戦の真っ只中ですから、どこからか落ち延びて来たような一行はたくさんいたのだと思われます。
そして、同時期に6歳の天皇が海に身を投げたとなると、各地の人々はそのような一行を見かけたら皆声を揃えて「あれ安徳天皇じゃね!?」ってなるかもしれないですよね。
当時は写真もなく本人の顔なんて分かりませんから。
しかし、多くある伝説の中の1つが真実かもしれないですよね?
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